エリザベート(エリーザベト・フォン・エスターライヒ、1837〜1898年)は「シシィ」の愛称で親しまれ、19世紀のオーストリア=ハンガリー帝国を象徴する美しき皇后。自由を愛し、悲劇に満ちた人生を送りながらも、今なおヨーロッパで高い人気を誇る彼女はどういった人物だったのでしょうか?なぜ「シシィ」と呼ばれたのか?
今回はエリザベートがどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、エリザベートについて具体的に理解できること間違いなし!
エリザベート(オーストリア皇后)の生涯は?
出身国と結婚

エリザベートは1837年にドイツ・バイエルン王国のミュンヘンで生まれました。正式名はエリーザベト・アマーリエ・オイゲーニエ。もともとはドイツ南部のバイエルンの公女であり、バイエルン王家の血筋でした。彼女は抜群の美貌を持ち、皇室とは無縁の自由な少女時代を過ごしていたものの、彼女の従兄弟でもあるオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と婚約。
1854年にわずか16歳で結婚し、オーストリア皇后となりました。
各地を旅する皇后



宮廷での束縛や姑のソフィー大公妃との確執、政治的な緊張感に悩まされたエリザベートは、次第にハプスブルク家の宮廷生活を避けるようになります。彼女はなにかと理由をつけて、ギリシャやイギリスなど各地を旅し、特にオーストリアの領土であり、独立を目指していたハンガリーを深く愛していました。
そして、勉強嫌いな彼女はハンガリー語を学ぶほどにハンガリーには熱意があり、1867年にはハンガリーの自治が認められるようになります。彼女の奔放な生き方は、皇后という立場としては異例であり、多くの人々の注目を集めました。
息子ルドルフ皇太子の死と悲劇的な暗殺



1889年に最愛の息子ルドルフ皇太子がマイヤーリンク事件と呼ばれる心中事件で命を絶ちます。以後、エリザベートは深い悲しみに沈み、黒い喪服を常に着るように。
彼女は失意の中、1898年にスイス・ジュネーヴで無政府主義者ルイジ・ルケーニによって暗殺されました。エリザベートは身分を隠して旅行していましたが、その行動が逆に暗殺者の標的とされてしまったのです。享年60歳。
なぜ「シシィ」と呼ばれるの?



「シシィ(Sisi)」は、彼女の家族が幼いころから使っていた愛称で、ドイツ語圏では親しい人に対してこうした愛称を付けるのが一般的でした。最初は「LIsi」ではありましたが、後に「Sisi」と変化。
このニックネームは、後に映画やミュージカルなどで広まり、現代でも「シシィ」と呼ばれ、ウィーンにはシシィ博物館などもあり、広く親しまれています。
エリザベートの子孫はいるの?



エリザベートの唯一の男子であったルドルフ皇太子は後継ぎを残さずに亡くなったため、彼女の直系の子孫は現代には存在しません。ただし、彼女の娘ギーゼラやマリー・ヴァレリーを通じて、遠い親族は現在の欧州王室にもつながっています。
とはいえ、オーストリア皇帝は夫であるフランツ・ヨーゼフ1世の後、大甥のカール1世が退位したため、ハプスブルク家当主はこちらの血筋であり、「シシィの血を引く直系の皇女・皇子」はすでに存在していません。
エリザベート(オーストリア皇后)にまつわる世界遺産はこちら!
ホーフブルク宮殿



ウィーン市内中心部に位置する宮殿で、13世紀からハプスブルク家の居城となりました。1918年までハプスブルク家の宮殿として利用され、その後はオーストラリア大統領公邸であり、一部は博物館や美術館、図書館などが集まる複合施設となっています。
敷地内にはシシィ博物館があり、彼女の愛用の品だけでなく、着用したドレスや戴冠式のドレスのレプリカなども展示されていて、日本人にも好評。
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世界遺産マニアの結論と感想
エリザベートは「シシィ」と呼ばれて愛される理由は、美しさと自由を愛し、波乱に満ちた人生を歩んだ、19世紀ヨーロッパの象徴的存在であったからでしょう。バイエルンの公女として生まれながらも、オーストリア皇后となった彼女は、皇室の厳格なしきたりに反発しながらも民衆から愛され、各地を旅して先進的な皇后であったことは間違いありません。
息子の悲劇的な死だけでなく、最期は暗殺という運命に翻弄されつつも、彼女の生き方は時代を超えて今でも愛されています。直系の子孫こそ残っていないものの、「シシィ」の名は今も世界中で親しまれ、映画やミュージカルを通じて彼女の生涯は語り継がれていますね。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。