文成帝(440〜465年)は、北魏の4代皇帝であり、仏教を保護し、世界遺産の雲崗石窟を造営を命じた人物。そんな文成帝とはどういった人物だったのでしょうか?
今回は文成帝がどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、について具体的に理解できること間違いなし!
文成帝とはどんな人物?

北魏(386年~534年)とは、中国の五胡十六国時代~南北朝時代にかけて存在した王朝で、鮮卑(せんぴ)族の拓跋(たくばつ)氏によって建国されました。開祖である道武帝(どうぶてい)の漢化政策により、中国文化を受け入れつつ発展。第3代太武帝(在位423~452年)が遊牧民族を撃退し、華北を完全統一したものの、彼は道教を重視し、仏教を弾圧しました。
452年に太武帝が宦官の宗愛(そうあい)によって暗殺されると、後に文成帝となる拓跋濬(たくばつしゅん)は宋愛を殺害して即位。彼は太武帝の仏教弾圧を撤回し、仏教を復興しました。これにより、多くの仏教寺院が再建され、世界遺産の雲崗石窟の建設も始まります。彼は中央集権化を進め、内政を安定させるものの、465年に26歳で急死してしまいます。
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山西省大同市から西方20kmに位置するのが雲崗石窟。ここには、約1kmにわたって約51窟の石窟が並ぶという広大なもの。文成帝が仏僧・曇曜(どんよう)に命じて、当時の首都・平常の近くに造られた5つの巨大な石仏が始まり。
ちなみにこの石仏は5人の北魏の皇帝を模していて「曇曜五窟」と呼ばれるもの。特に20窟の如意坐像は雲崗石窟を代表するもので、これは北魏の初代皇帝・道武帝の姿を模したとされています。
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世界遺産マニアの結論と感想
彼は26歳で死去してしまったため、その実績は少ないですが、北魏が華北を統一したばかりであったため、中央集権化を進め、政治を安定化したというのが功績でしょうか。むしろ、当時流行してきた仏教を復興し、雲崗石窟の建設が始めた人物として有名です。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。