チンギス・ハン(在位:1206〜1227年)は、モンゴル帝国の初代皇帝であり、モンゴルの遊牧民をまとめあげ、ユーラシア大陸の大部分を征服した史上最大規模の帝国の基盤を築いた人物として、国を代表する英雄でもあります。そんなチンギス・ハンとはどういった人物だったのでしょうか?
今回はチンギス・ハンがどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、について具体的に理解できること間違いなし!
チンギス・ハンとはどんな人物?
本名はテムジン

彼が生まれたのは1162年頃(異説あり)で、モンゴル高原のブルカン山(カルドゥン)辺りだとされています。テムジンと名付けられた少年は、部族の首長だった父が毒殺されたため、一家は追放され、幼少期は貧しい生活を送っていました。しかし、次第に彼はそのリーダーシップにより、モンゴル族をまとめあげ、ライバルたちを破り、1206年にチンギス・ハンとして即位します。
そして、遊牧民の軍隊を「千人隊」と呼ばれる集団に整理し、彼の兄弟や息子たちをそれぞれ、遊牧領民集団(ウルス)に分け、大オルド(本拠地)から補給しながら、東西に向かって拡大していくような仕組みを築きました。
彼の領土はどれくらいまで広がった?



まず彼は、隣国の西夏を攻めて屈服させると、中国北部の女真族の金王朝を攻撃し、中都(北京)を陥落させ、都市を破壊し尽くしました。中国北部を支配下に入れると、今度は中央アジアのホラズム・シャー朝(現在のイラン・ウズベキスタン)と交易を試みるも、彼の使節が殺されために、自ら大軍を率いて、サマルカンドやブハラなどの主要都市を制圧。軍は東ヨーロッパまで達するものの、1225年にモンゴル高原へと帰還しました。
の実はこの時点で彼の領土は、東は中国北部、西はカスピ海くらいまでの範囲であり、広大ではあるものの、彼の時代の領土はそこまで広くはなく、世界最大の帝国が築かれるのは彼の息子であり、2代皇帝のオゴデイ(在位:1229〜1241年)の時代。
チンギス・ハンの死因は?



帰国したチンギス・ハンは、広大になった帝国を息子たちに分割し、1226年に臣下となっていた西夏が金と手を組んだため、再征服するも1227年に陣中で死去。埋葬地は不明で、旅行家のマルコ・ポーロの『東方見聞録』によると、彼の墓は重要機密で隠されていたとされています。
モンゴル帝国時代には陵墓が存在していたものの、後継国家が滅ぶとその場所は忘れ去られてしまいました。近年は日本の調査隊が首都ウランバートル東部にチンギス・ハンの宿営地の跡を発見。その近くに霊廟がある可能性があるのですが、モンゴル人の感情を考慮して墓は今でも探されていません。
チンギス・ハンの妻は何人いた?



チンギス・ハンには、多くの妻がいたことで有名ですが、大ハトゥンと呼ばれる最上位の妃が5人いたことが歴史書に記載されていますが、征服活動を通じて多くの妻を迎えていたため、その数は膨大。
しかし、最も有名なのは、最初の妻で、正妻であり、最も影響力のあったボルテ。チンギス・ハンには多くの子供がいましたが、彼女との間の4人の息子(ジョチ、チャガタイ、オゴデイ、トルイ)は帝国を分割して与えられ(末子のトルイは除く)、重要なポジションでした。そして、3男のオゴデイが帝国の後継者となります。
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アフラシヤブの丘/ウズベキスタン



ウズベキスタンの中央部、ゼラフシャン川の渓谷にあるオアシス都市であるサマルカンドは、ウズベキスタンでも最古の歴史を持つ居住地であり、シルクロードで栄えた、文明の交差地であった場所。
アフラシヤブの丘は、紀元前7世紀に築かれたソグド人によって築かれた都市遺跡。かつては交易で栄え、玄奘三蔵も訪れ、街の美しさを称賛しました。しかし、13世紀にチンギス・ハンによって破壊され、現在は遺構のみ残存。
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ブハラ歴史地区/ウズベキスタン



ブハラはウズベキスタン南部にあるブハラ州の州都であり、2000年以上もの歴史を誇る町。ここには9〜17世紀にかけて建造されたイスラム建築が残り、保存状態は良好です。
ブハラは13世紀にチンギス・ハン、14世紀にティムールに侵攻され、町は徹底的に破壊。復興はするものの、政治の中心は近くのオアシス都市であるサマルカンドに譲ることになります。
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クフナ・ウルゲンチ/トルクメニスタン



ウズベキスタンとの国境近くにあるクフナ・ウルゲンチは、現在は北方に移動したアムダリヤ川沿岸に築かれた都市。ここはホラズム地方(現在のウズベキスタンとトルクメニスタン)の中心都市で、はっきりとはしていませんが、アケメネス朝ペルシャ(紀元前550年〜紀元前330年)の時代から存在していたというほどに歴史が古い街。
都市は12〜13世紀に全盛期を迎えるものの、チンギス・ハンの侵攻によって市民がほぼ虐殺されてしまい、その後は少しずつ復旧するものの、結局16世紀には現在のウズベキスタンにある「ウルゲンチ」に都市機能はすべて移転し、ここは遺跡としての「クフナ(旧)」のウルゲンチとなりました。
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大山ブルカン・カルドゥンと周辺の神聖な景観/モンゴル



ブルカン・カルドゥンは、モンゴル語で「神の山」といったニュアンスを持つもの。ここはモンゴル北東部に広がるヘンティー山脈の中央にあり、中央アジアのステップ(高原)とシベリアのタイガ(針葉樹林)が接する場所。
この地はモンゴル帝国を築いたチンギス・ハンの生誕地であり、埋葬地であると信じられてきました。しかし、現在でもチンギス・ハンの墓は公式には発見されていません。
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世界遺産マニアの結論と感想
チンギス・ハンは、世界最大の領土を築いたモンゴル帝国の初代皇帝であることから、その功績は偉大ではあるものの、彼は各地で女・子供関係なく虐殺を繰り返し、征服を続けたため「恐怖」の対象でもありました。とはいえ、それはあくまでも征服における戦闘ではよく行われる行為であり、彼が特別に恐ろしい人物だったかと言われると疑問なところ。賛否はありますが、間違いなく、戦闘の天才ではあり、彼の征服活動によって世界は一変し、それが結果的に東西交流に結びついた…という点でも貢献はしたかもしれませんね。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。