バビロン捕囚とは、紀元前6世紀に現在のパレスチナ地方に暮らしていたユダヤ人が現在のイラク南部のバビロニア地方へと捕虜として移住させられたという事件。世界史の授業でも登場する出来事ですが、意外と分かってそうでよく分からない話ですよね。
今回はバビロン捕囚を世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、バビロン捕囚について具体的に理解できること間違いなし!
バビロン捕囚とは?なぜユダヤ人はなぜ移住する必要があったの?
この話は紀元前10世紀にパレスチナの地で成立したユダ王国(紀元前930年頃〜紀元前586年)から始めましょう。これはユダヤ人の国で、ユダ族とベニヤミン族という部族から構成された国家。しかし、イラク北部を中心としたアッシリア帝国(紀元前934年〜紀元前609年)が成立すると属国となり、さらにイラク南部で勃興した新バビロニア(紀元前625年〜紀元前539年)がアッシリアから独立して滅ぼすと、紀元前597年に2代目の王ネブカドネザル2世(紀元前642年〜紀元前562年)がパレスチナを征服。
しばらくは独立国として維持していたものの、バビロニアから独立しようという企てが発覚したために、紀元前586年に首都であったエルサレムを陥落させ、当時の神殿は破壊。
捕囚としては紀元前597年に行われていたものの、紀元前578年まで、王族や貴族を含む生き残ったユダヤ人の大半を、バビロニアへと移住させました。その場所は現在の首都バグダッドの郊外であり、この地域は戦争によって人口が減少していたためにそれを補うという目的があったと考えられています。
その一方、技術者は首都であったバビロンへと移住させられているので、これは古代オリエント社会でよく見られる「強制移住」の一つであったもの。強制移住はさまざまな意味を持ち、もちろん労働力の確保もありますが、支配したエリアの反乱を防止するという施策でもあったのです。
ユダヤ人にとってバビロン捕囚はどんな意味を持つ?
バビロン捕囚は紀元前537年に、新バビロニアを滅ぼしたアケメネス朝ペルシア(紀元前550年〜紀元前330年)の初代キュロス2世によって帰還を許されるまで続きました。
約60年近くに及ぶ捕囚は、バビロニア社会に馴染んでいく一方、彼らの宗教のあり方も強くなっていったという側面もあります。実際にそれまでのユダヤ教は神殿を中心とした宗教でありましたが、遠く離れた地でも信仰を続ける必要があり、律法、つまりはトーラー(聖書の最初のモーセ五書)を重んじるようになっていきました。それもあり、後にパレスチナから世界各地に離散していった際に、各地で彼らのアイデンティティが保たれたのもこの経験があったというのが理由の一つ。
世界遺産マニアの結論と感想
バビロン捕囚は、古代オリエントでよく見られる強制移住の一つであるものの、実はユダヤ人にとってはそれだけの意味ではありません。結果的にユダヤ人はこの後、アケメネス朝などの支配を経て、1世紀までパレスチナまで暮らすことになるものの、近代まで離散してしまうために、ユダヤ教を遠く離れた場所でどのように維持していくか、そのノウハウを確立したのがこのバビロン捕囚であったために、この出来事は重要だったのです。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。