登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (2), (4), (6) |
登録年 | 1998年 |
首都マドリードの郊外にあるアルカラ・デ・エナーレスは、世界で最初に計画された大学都市。ここは1508年にカスティーリャ王国の摂政を務めたシスネロス枢機卿によって創設されたコンプルテンセ大学があった場所で、大学は移転したものの、建造物は市民によって購入され、現在も残されています。ここは『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』の作者セルバンテスの出身地としても有名。
ここではアルカラ・デ・エナーレスの大学と歴史地区がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、アルカラ・デ・エナーレスの大学と歴史地区について詳しくなること間違いなし!
アルカラ・デ・エナーレスの大学と歴史地区とは?
首都マドリードから東へ約30kmの位置にあり、古代ローマ時代には「コンプルトゥム」と呼ばれ、イスラム支配下の12世紀に砦が築かれたため「アルカラ(砦)」という街の名前のルーツとなっています。12世紀にカスティーリャ王国の領地となり、現在の歴史地区の西側に大聖堂など中心にキリスト教徒街、ユダヤ人街、アラブ人街が作られました。
15世紀末から16世紀初頭に、カスティーリャ王国の摂政シスネロス枢機卿(1436〜1517年)によって、キリスト教の理想郷としてコンプルテンセ大学を中心とした大学都市を建造。彼はここで世界初の多言語訳聖書を刊行したことでも知られます。その後、ここでは『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』の作者であるミゲル・デ・セルバンテス(1547〜1616年)が誕生した地としても有名。
大学都市は歴史地区の東側に広がっていて、中世の壁の一部を取り壊し、新しいエリアが加えられたもの。ここは中央のセルバンテス広場 (旧マヨール広場)を中心に建造物が広がっています。コンプルテンセ大学は19世紀にマドリードに移転してしまったものの、市民が大学の建造物を買い取り、1977年にアルカラ大学として開校しました。
アルカラ・デ・エナーレスの大学と歴史地区はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
アルカラ・デ・エナーレスの大学と歴史地区が評価されたのが、以下の点。
登録基準(ii)
アルカラ・デ・エナーレスは、大学を中心として設計された最初の大学都市であり、これはヨーロッパやアメリカ大陸の他の教育機関のモデルとしての役割を果たしたという点。
登録基準(iv)
アルカラ・デ・エナーレスは、シスネロス枢機卿によって、神の国、キリスト教の理想都市を体現したもので、ここから世界に広く普及したということ。
登録基準(vi)
アルカラ・デ・エナーレスでは、スペイン語の定義を踏まえた言語学の発展が見られ、さらにスペイン文学である『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』の作者セルバンデスの生まれ故郷であることから、文学や言語学の発展に貢献した場所であるという点。
世界遺産マニアの結論と感想
アルカラ・デ・エナーレスは、シスネロス枢機卿によって開校したコンプルテンセ大学を中心とした大学都市で、これは熱心なキリスト教徒であった彼による理想郷であり、この大学都市の構造はヨーロッパやアメリカ大陸の学園都市のモデルにもなったという点で評価されています。そして、世界初の多言語訳の聖書や『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』の作者セルバンデスの生まれ故郷であるというのもポイント。
ちなみに、コンプルテンセ大学は18世紀に女子生徒に博士号を与えたことでも有名。他の大学、特にオックスフォード大学とケンブリッジ大学は20世紀まで女子生徒に博士号を与えていないので、ここの教授陣は性別で学生を評価しないという柔軟性が古くからあることでびっくりしますね。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。