登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (6) |
登録年 | 2017年 |
ヴァロンゴ埠頭の考古遺跡はリオ・デ・ジャネイロ市の中心部、ジョルナル・ド・コメルシオ広場にあります。ここは1811年以降アフリカから南米へと黒人奴隷を上陸させるために建造された石造りの埠頭でした。埠頭は90万ものアフリカ人奴隷が通ってきた場所とされ、最下層のペ・デ・モレク様式の遺構が本来の埠頭の姿であると考えられています。
ここではヴァロンゴ埠頭の考古遺跡がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、ヴァロンゴ埠頭の考古遺跡について詳しくなること間違いなし!
ヴァロンゴ埠頭の考古遺跡とは?
リオ・デ・ジャネイロのセントロ地区北部にあるジョルナル・ド・コメルシオ広場。現在は埋め立てられてしまいましたが、ここは以前リオの港であった場所で、地下にはヴァロンゴ埠頭という当時の石造りの埠頭が残っています。ここは1811年に建設され、アフリカから黒人奴隷が連れて来られ、90万人もの人々がこの港から南米各地へと移動していったと推測されています。この遺産はアフリカ系のアメリカ人にとって、その歴史やシンボルとしても重要なもの。
最下層のペ・デ・モレク様式の舗装された部分が最も古いもので、その後1843年に建設された埠頭部分も残ります。埠頭は海岸に沿って斜面上にさまざまなサイズや形状の切り石で舗装され、階段状に並べられているもの。
ヴァロンゴ埠頭の考古遺跡はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
ヴァロンゴ埠頭の考古遺跡が評価されたのが、以下の点。
登録基準(vi)
ヴァロンゴ埠頭は、アメリカ大陸に連れてこられたアフリカ人奴隷が初めて到着した地という歴史的な証拠でもあり、ここは数十万人もの人々が奴隷として連れてきたという、歴史上最大の強制移住として人類の恐ろしい罪を示すものの一つ。埠頭はアフリカ人奴隷がアメリカの地に踏み入れ、労働者として新しい生活を初めた場所として、現在も多くのアフリカ系ブラジル人の共感できる負の記憶でもあります。これらを記憶として保存しているという点。
世界遺産マニアの結論と感想
ヴァロンゴ埠頭は、かつての港が存在していた時代の遺構であり、19世紀初頭からアフリカから多くの奴隷が連れてこられ、ここから南米各地へと離散していくということで、アフリカ系ブラジル人にとっては忘れてはならない場所として保存されています。
ちなみに、アフリカ系ブラジル人として有名なのは、サッカーの王様こと「ペレ」。彼の家系はアフリカのアンゴラやナイジェリアのルーツがあるという説があり、彼のファミリーネームである「ナシメント」は奴隷として働いていた農場経営者の名が由来という説もあります。そして、彼は後にブラジルのスポーツ大臣となり、黒人初の閣僚となったという点でも伝説を作りました。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。