シャー・ジャハーン(1592〜1666年)はムガル帝国(1526〜1539年・1555〜1858年)の第5代皇帝。彼の治世は文化・芸術・経済が最盛期を迎えた黄金時代であり、特に壮麗な建築物を多く建設したことで有名。特に世界遺産「タージ・マハル」を建造したことで知られます。シャー・ジャハーンとはどういった人物だったのでしょうか?
今回はシャー・ジャハーンがどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、シャー・ジャハーンについて具体的に理解できること間違いなし!
シャー・ジャハーンとはどんな人物?
誕生と「世界の皇帝」

1592年にラホール(現在のパキスタン)にて、第4代皇帝のジャハーンギールの三男として生まれます。本名はフッラム。彼は祖父である第3代皇帝アクバルから、ムガル帝国の後継者としての教育を受け、多様な文化や宗教への寛容性を学びました。シャー・ジャハーンはペルシャ貴族の娘アルジュマンド・バーヌー・ベーグム(後のムムターズ・マハル)と出会い、1612年に結婚。
1622年にシャー・ジャハーンは父ジャハーンギールに反抗し、一時的に失脚するも、父の死後、1627年に王位を狙います。1628年に兄弟との王位継承争いに勝利し、正式にムガル帝国第5代皇帝となります。戴冠式はアーグラで行われ、「シャー・ジャハーン(世界の皇帝)」と名乗りました。
タージ・マハルの建設とイスラム文化の繁栄



1631年に最愛の妻ムムターズ・マハルが14人目の子供を出産後に亡くなってしまいます。彼は嘆き悲しみ、彼女を偲んで1632年から30年もの月日をかけ、世界で最も美しい霊廟とされる「タージ・マハル」を建設。彼の治世中、インド・イスラーム文化は黄金期を迎え、1628年から建造が始まった「孔雀の玉座」は代表的な作品で、ダイアモンドやルギー、サファイア、エメラルドなどが使われた豪華な玉座でした。
シャー・ジャハーンは軍事力を強化し、ムガル帝国の領土を拡大。南部はビジャープル王国、ゴールコンダ王国を攻撃し、1636年には宗主権を認めさせ、西部ではサファヴィー朝(現在のイランを中心とした国家)と戦い、1649年には重要都市であるカンダハール(現アフガニスタン)を奪還。しかし、獲得した土地は後年に奪われてしまいます。
晩年と幽閉



1657年にシャー・ジャハーンが病に倒れると、息子たちの間で王位継承争いが勃発。シャー・ジャハーンは長男ダーラー・シコーを支持したものの、三男のアウラングゼーブが兄弟たちに勝利し、殺害。そして、1658年に父をアーグラ城で幽閉します。これによって彼は皇帝を退位。
シャー・ジャハーンはアーグラ城に閉じ込められ、タージ・マハルを眺めながら余生を送ることになりました。1666年にアーグラ城で死去(享年74歳)。遺体はタージ・マハルに埋葬され、ムムターズ・マハルと並んで眠っています。
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タージ・マハル/インド



インド北部、ウッタル・プラデーシュ州にあるアーグラは、インド一帯を支配下に置いたムガル帝国でも一時的に首都となったことがある街。タージ・マハルは、ガンジス川の支流であるヤムナ川沿いに位置しており、敷地は南北560m、東西303mと長方形となっています。
これは彼の愛妃であるムムターズ・マハルのために造られた大理石の建造物で、インド・イスラム建築の傑作。世界でも有名な霊廟の一つでもあり、地下には、ムムターズ・マハルの墓がありますが、その隣には夫であるシャー・ジャハーンの墓もあります。
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アーグラ城塞/インド



アーグラ城塞は、第3代アクバル帝によって1565〜1573年に築かれたもの。二重の城壁に囲まれており、赤砂岩で築かれたことからレッド・フォート(赤い城)と呼ばれます。
観は堅固な要塞であるものの、内部には白い大理石の宮殿が築かれたのは、シャー・ジャハーンが赤砂岩を嫌ったため。よって、アクバルが築いた建築物はジャハーンギール宮殿以外はほとんど残っていませんが、インドで発展したイスラム建築の多くが見られます。「ムサンマン・ブルジュ(囚われの塔)」はアウラングゼーブによって幽閉された場所で、今でも遠くにタージ・マハルを眺めることが可能。
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赤い城(レッド・フォート)の建造物群/インド



インドの首都デリーの中心部に位置する広大な城で、シャー・ジャハーンが、アーグラから遷都した際に居城としたもの。城は1639〜1648年にかけて建造され、赤い砂岩を使用したことから「赤い城(レッド・フォート)」と呼ばれます。
赤い砂岩の城壁で囲まれていますが、内壁にはイスラム王朝であったムガル帝国らしく、コーランに描かれた楽園を実現した宮殿と庭園が点在します。
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ラホール城とシャーラマール庭園/パキスタン



「ラホール城」は街の北西に位置してする広大な城塞。城が最も壮麗なものになったのは、17世紀前半のシャー・ジャハーンの時代。白大理石を使用した「真珠のモスク」や40本の円柱を使用した謁見の間であった「40本柱の間」などを増設して、ラホール城を壮麗な建築物に仕上げていきました。
「シャーラマール庭園」はラホール北部にある広大な庭園。ここは17世紀前半に第5代のシャー・ジャハーンによって造園された、ペルシャ式泉水庭園でした。庭園は、南北658m、東西258mと長方形をしていて、レンガの壁で囲まれています。
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タッターの文化財/パキスタン



パキスタン南部のシンド州。シンドとは、古サンスクリットで「海や河」などを示していて、パキスタンを貫くインダス川の三角州の手前にあるタッターは、かつてのシンドの中心地として繁栄。
タッターには1659年に完成したシャー・ジャハーン・モスクが現在でも現存しています。これはシャー・ジャハーンの治世に建造を指示されたもの。青をベースにした彩釉タイルと彩釉レンガで建造した金曜モスクで知られます。
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世界遺産マニアの結論と感想
シャー・ジャハーンは、ムガル帝国の最盛期を築いた皇帝であり、彼の治世は帝国の最大領土ではないものの、周辺国を支配し、大いに繁栄しました。それもあり、建築に莫大な予算を費やすことが可能となったことで、タージ・マハルなどの美しい世界遺産を築くことになります。しかし、息子のアウラングゼーブとの確執により、帝国の後継争いを引き起こし、晩年はタージ・マハルを眺めながら幽閉されるという寂しい余生を過ごしました。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。