アウラングゼーブ(1618〜1707年)はムガル帝国(1526〜1539年・1555〜1858年)の第6代皇帝。彼の治世は帝国の版図を最大に広げたものの、厳格なイスラム政策や長期にわたる軍事遠征によって帝国衰退の要因となった人物。アウラングゼーブとはどういった人物だったのでしょうか?
今回はアウラングゼーブがどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、について具体的に理解できること間違いなし!
アウラングゼーブとはどんな人物?
誕生と父の幽閉

1618年に第5代皇帝シャー・ジャハーンと妃ムムターズ・マハル(タージ・マハルの建造のきっかけとなった女性)の間に生まれ、彼は三男でした。幼少期からイスラム教の教育を受け、敬虔なムスリムとして育ちます。1636年にデカン総督、1645年にグジャラート総督となり、1652年、再びデカン総督に任命され、軍人として勢力を拡大。
1657年にシャー・ジャハーンが重病になり、父に愛されていた長男のダーラー・シコーと対立。アウラングゼーブは宗教的厳格さを前面に出し、イスラム法に基づく統治を訴え、兄弟たちとの戦争に勝利し、彼らを処刑。1658年にシャー・ジャハーンをアーグラ城に幽閉しました。そして、デリーの赤い城で即位。
遠征により帝国最大の領土になるも…



かつてはムガル帝国と協力関係にあった、西インドのラージプート諸侯と対立し、反乱を招きます。南インドのヒンドゥー勢力であるマラーター王国(創設者はシヴァージー)とは1660年代から激しく対立。1680年にシヴァージーが死去するも、息子サンバージーが抵抗を継続し、領土はアウラングゼーブの治世中にインド亜大陸のほぼ全域に及ぶものの、戦費がかさみ、財政が逼迫。
さらに、彼は敬虔なイスラム教徒であったことから、アクバル帝が廃止したヒンドゥー教徒への人頭税を再導入し、多くのヒンドゥー教寺院を破壊し、その跡地にモスクを建設したために、中央政府の統制力が低下し、地方反乱が相次ぎます。
晩年と最期



南インドのマラーター王国との戦争は彼の晩年まで長引き、攻略はできず、軍事負担が増大。そして、彼はマラーターとの戦争のため、首都デリーには戻ることができず、帝国の貴族や将軍たちの不満が高まり、国内の結束が崩壊します。
1705年ころに彼は病気となり、自身の統治について激しく後悔するようになります。皇位継承についても不安が残る中、1707年にアウラングゼーブは死去(88歳)。結局、後継者争いが勃発し、ムガル帝国は弱体化し、崩壊へと繋がっていきます。
アウラングゼーブにまつわる世界遺産はこちら!
アーグラ城塞/インド



アーグラ城塞は、第3代アクバル帝によって1565〜1573年に築かれたもの。二重の城壁に囲まれており、赤砂岩で築かれたことからレッド・フォート(赤い城)と呼ばれます。
観は堅固な要塞であるものの、内部には白い大理石の宮殿が築かれたのは、シャー・ジャハーンが赤砂岩を嫌ったため。シャー・ジャハーンとアウラングゼーブによって改築され、敷地内には壮麗な宮殿やモスクなどが築かれ、皇帝好みの建築物が増設されていきました。「ムサンマン・ブルジュ(囚われの塔)」はアウラングゼーブによってシャー・ジャハーンが幽閉された場所で、今でも遠くにタージ・マハルを眺めることが可能。
詳細はこちら↓



赤い城(レッド・フォート)の建造物群/インド



インドの首都デリーの中心部に位置する広大な城で、ムガル帝国のシャー・ジャハーンが、アーグラから遷都した際に居城としたもの。城は1639〜1648年にかけて建造され、赤い砂岩を使用したことから「赤い城(レッド・フォート)」と呼ばれます。
「サリームガル城」は1546年にイスラム王朝であったスール朝の君主イスラーム・シャーに建造された城塞。その後、アウラングゼーブは、ここを刑務所として使用したことも。現在は城壁のみ残り、これも世界遺産の登録範囲に加えられています。
詳細はこちら↓



世界遺産マニアの結論と感想
アウラングゼーブは、ムガル帝国を最大に拡大したものの、彼自身がイスラム教に偏向したため、宗教政策は失敗。さらには征服戦争だけでなく、反乱によって戦費は大きくなり、帝国の弱体化を招いた皇帝でもありました。これにより、イギリスによるインド支配の隙を与えることとなり、帝国の領土を最大にしたものの、その範囲を守りきれなかったという賛否両論のある皇帝でもあります。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。