登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (2), (3), (4) |
登録年 | 1979年 |
クロアチア南部の都市スプリットは、3世紀後半から4世紀初頭にかけてローマ帝国の皇帝ディオクレティアヌスによって建造された宮殿を解体して築かれた都市。そして、ローマ時代の遺跡の上にゴシック、ルネサンス、バロックといったさまざまな建築物が混在した独特の町並みを現在に残します。
ここでは、ディオクレティアヌス宮殿のあるスプリトの歴史的建造物群がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、スプリトについて詳しくなること間違いなし!
ディオクレティアヌス宮殿のあるスプリトの歴史的建造物群とは?
クロアチア南部・アドリア海沿岸に広がるダルマチア地方・最大都市であるスプリト。この地は、3世紀後半から4世紀初頭にかけてローマ皇帝であったディオクレティアヌスによって隠居用の宮殿が築かれました。
ディオクレティアヌスは、一兵卒から皇帝にまで出世したとされる軍人皇帝で、284年に皇帝に即位する「テトラルキア(四分統治)」として、帝国を4つに分け、軍人が皇帝へと何度も即位する混乱期を収束させたことで知られます。彼は近隣の都市サロナ出身で、引退後は311年に亡くなるまでここで生活していました。
そして、彼の死後、7世紀には東方からアヴァール人とスラヴ人が侵入すると、サロナの市民はかつてのディオクレティアヌスが住んだ宮殿跡に暮らすようになり、宮殿を解体しつつ、遺跡の上に市場や広場、住宅などを築いたのです。
その後、ダルマチア地方は、クロアチア王国やヴェネツィア、オーストリアに支配され、キリスト教が導入されると、12〜13世紀にはロマネスク様式の建築物、15世紀にはゴシック様式の宮殿、そして、ルネサンス様式の建造物が加えられていき、遺跡の上にさまざまな建造物が並ぶという不思議な町並みが造られていったのです。
登録されている主な構成資産
ペリスティル
旧市街の中心部にある、かつてのディオクレティアヌスの宮殿の中庭だった場所。現在はコリント式の列柱が並ぶ広場となっていて、ディオクレティアヌスがエジプト遠征で持ち帰ったとされるスフィンクス像が一つだけ置かれています。
ペリスティルから南門まではカルドと呼ばれる地下通路を歩くのですが、その近くにヴォールトのある地下貯蔵庫が広がっています。
聖ドムニウス大聖堂
ペリスティルの東側に位置するのが、かつてのディオクレティアヌスの霊廟を解体して建造された大聖堂。近海に浮かぶブラチ島産の大理石を使用し、霊廟は4世紀に建造されました。
7世紀にスプリットが建造されると、ここは4世紀に活躍したサロナの聖人、聖ドムニウスの名前が付けられた大聖堂となりました。街のシンボルである鐘楼は12世紀にロマネスク様式で築かれましたが、現在見られるものは1908年に再建されたもの。
洗礼室(ジュピター神殿)
旧市街の南西部に残る建築物は、かつては古代ローマの神・ジュピターを祀る神殿でした。ディオクレティアヌはここを完成することはなく、亡くなり、建造された時期はハッキリとは分かっていませんが、6世紀には聖ヨハネの名の付いた洗礼室となりました。現在の建物内には、芸術家であるイヴァン・メシュトロヴィッチが建造した聖ヨハネ像が置かれています。
ディオクレティアヌス宮殿のあるスプリトの歴史的建造物群はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
スプリトが評価されたのが、以下の点。
登録基準(ii)
スプリットの街は古代ローマの遺跡をベースに、クロアチア王国やヴェネツィア、オーストリアなど、支配者が変わることにさまざな建築様式が築かれたということ。
登録基準(iII)
かつてのディオクレティアヌスの宮殿を利用した都市であり、城壁などは現在でも残存していて、宮殿だった時代の名残も見られるという点。
登録基準(iv)
古代の宮殿を再利用し、大聖堂や洗礼室、邸宅などが築かれ、区画を建築物で埋めるように都市を構成いったということ。
世界遺産マニアの結論と感想
ここはローマ時代の広大な宮殿跡を街へと改築した、世界でも珍しい都市構造になっていて、ローマ時代の城壁などが今でも現役で使われている点で評価されています。そして、この遺跡の上にゴシック、ルネサンス、バロックといったさまざまな建造物が建てられているというのもポイント。
ちなみに、旧市街の北側にある広場には、グルグリ・ニンスキ像という巨大な像があって、左足の親指を触ると幸せになるとかで、あまりにも触られすぎて、そこだけピカピカになっています。で、なぜ左足の親指がパワースポットなのかは不明ですが…みんな必ず触るのです。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。