鹿児島県の世界遺産「旧集成館」とは?世界遺産マニアが解説

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登録区分文化遺産
登録基準(2), (4)
登録年2015年

旧集成館は「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産の一つ。ここは藩主であった島津斉彬によって進められたアジア初の近代的西洋式工場でもあります。ところで、旧集成館はなぜ世界遺産なのでしょうか?意外と知ってそうで知らない!

ここでは旧集成館がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、旧集成館について詳しくなること間違いなし!

目次

旧集成館とは?

旧集成館反射炉跡
画像素材:写真AC

鹿児島は、かつての薩摩藩の領地だった地。第28代当主・島津斉彬(1809〜1858年)は欧米列強に対抗するために1851年から「集成館」と名付けた近代的な工場を建造し、ここでは軍事産業の発展だけでなく、製鉄や造船、紡績などが行れたことが特徴でもあります。そのため、ここはアジア初の近代西洋式工場でもありました。しかし、1858年に斉彬が亡くなり、後に戦争で工場を失ってしまいますが、イギリスの協力のもとに再興されていきます。

旧集成館は、鹿児島市吉野町にある島津家の庭園・仙巌園(せんがんえん)の近くに置かれ、反射炉である「旧集成館反射炉跡」、機械工場であった「旧集成館機械工場」、イギリスから訪れた技師たちの宿舎「旧鹿児島紡績所技師館」などで構成されています。

旧集成館反射炉跡

旧集成館反射炉跡
画像素材:写真AC

仙巌園内にある反射炉跡で、現在は下部だけが残されています。ここは佐賀藩が保有していたオランダの技術書を基にして、石積みや薩摩焼の技術を利用したレンガを利用して反射炉が建造されました。

旧集成館機械工場(尚古集成館)

旧集成館機械工場(尚古集成館)
画像素材:写真AC

もともとは金属や部品を加工したり、船舶の修理などを行っていた機械工場。1863年の薩英戦争によって一度焼失するもの、現在残る本館は1865年に建造されました。日本で初めてアーチを採用した石造りの洋風の建造物でもあり、現在は重要文化財に登録されていて、島津家の歴史と文化を展示した「尚古集成館」として公開。

旧鹿児島紡績所技師館

旧鹿児島紡績所技師館
画像素材:写真AC

仙厳園の近くにある洋館。ここは1867年に紡績所を建設する際に、イギリス人技術者を招き、彼らの宿舎として使用されました。技術者の帰国後は、大砲製造の支配所などに使用され、1882年に鹿児島城に移築されたものの、1936年に現在の位置に移築され、現在は異人館として公開。

旧集成館はどんな理由で世界遺産に登録されているの?

旧集成館機械工場(尚古集成館)
画像素材:写真AC

旧集成館が評価されたのが、以下の点。

登録基準(ii)
明治日本の産業革命遺産は、江戸時代から続く封建社会であった日本が19世紀半から西欧の技術によって20世紀初頭まで短期間で世界有数の工業国となり、そのノウハウや技術など、東アジアの工業化において影響を与えたという証拠である点。

登録基準(iv)
日本各地に残る鉄鋼、造船、石炭の産業拠点は、世界の歴史において、西欧諸国以外で初めて近代化に成功し、西欧技術の採用により、地元の技術革新と合わせて日本独自の工業化を反映した産業遺産であったということ。

世界遺産マニアの結論と感想

旧集成館は、先鋭的な指導者であった島津斉彬によって築かれた近代的西洋式工場で、日本を含めたアジアの工業化の先駆け的な存在であるという点で評価されています。

ちなみに、島津斉彬は日本人で初めて写真撮影された人物として有名で、彼の趣味も写真撮影だったそう。島津斉彬が初めて人物写真の撮影に成功したのが1841年の6月1日だったため、それを祈念して日本写真協会によって6月1日が「写真の日」となっています。

※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。

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この記事を書いた人

世界遺産一筋20年以上!遺跡を求めて世界を縦横無尽で駆け抜ける、生粋の世界遺産マニアです。そんな「世界遺産マニア」が運営するこちらのサイトは1100以上もある遺産の徹底紹介からおもしろネタまで語り尽くすサイト。世界遺産検定一級取得済。

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