登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (1), (2), (3), (4), (5) |
登録年 | 2004年 |
中国の北朝鮮の国境沿いにはかつて朝鮮半島や中国北東部を支配していた高句麗(紀元前1世紀〜668年)前期の3つの都城(首都)があり、王や貴族の墳墓も点在しています。ここには第19代王の好太王(広開土王)の石碑もあり、古代日本の歴史を知る上での最大の資料があることでも有名。
ここでは高句麗前期の都城と古墳がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、高句麗前期の都城と古墳について詳しくなること間違いなし!
高句麗前期の都城と古墳とは?
中国の北東部の遼寧省桓仁県と吉林省集安市には、高句麗前期の3つの都城と40の墳墓が存在しています。高句麗とは、最盛期は朝鮮半島や中国北東部を支配していた王朝で、427年に首都を平壌に移す前は、紀元前37年に五女山城(ごじょさんじょう)、紀元3年に丸都山城(がんどさんじょう)、そして国内城(こくないじょう)へと遷都し、それらの遺構は中国北東部で見られます。
五女山城にはかつての首都であった「卒本城」があり、ここには防御壁で囲まれた、宮殿や監視塔、住宅、倉庫などがありました。丸都山城は山城ではあるものの、巨大な宮殿と城壁があり、国内城は平城です。丸都山城の近くには、高句麗の王と貴族の墳墓があり、特に王の墳墓は階段状のピラミッドとなっているのが特徴。貴族の墳墓には石室があり、そこには日常生活や狩猟、神々、龍などが描かれた壁画が残っています。
丸都山城近くには、「将軍塚」という大型の積石塚があり、これらは高句麗第20代の長寿王(在位413〜491年)の墓と比定されていて、近くには彼の父である第19代王の好太王(広開土王、391〜413年)の石碑もあり、これは当時「倭」と呼ばれた時代の日本のことが分かる貴重な資料でもあります。
高句麗前期の都城と古墳はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
高句麗前期の都城と古墳が評価されたのが、以下の点。
登録基準(i)
高句麗前期の古墳にある壁画は、人類の創造的な才能を示す傑作であるという点。
登録基準(ii)
高句麗前期の都城は、後の近隣諸国に模倣されるほどの山城であり、墳墓や石碑にある長い碑文は中国文化によって影響が与えられたもので、墳墓の壁画は他方の文化からの影響も受けているということ。
登録基準(iii)
高句麗前期の都城と古墳は、既に消滅した高句麗の文明を示すものであるという点。
登録基準(iv)
高句麗前期の都城は当時の王によって建設され、後の首都の都市設計にも影響を与え、周囲に残る古墳は積石塚であり、土で作られた古墳の発展を表すものであるということ。
登録基準(v)
高句麗前期の都城は、断崖や森、川など、人間の建築技術と自然の融合を示すものであるという点。
世界遺産マニアの結論と感想
高句麗前期の都城と古墳は、高句麗前期の文明の痕跡が見られ、これらは中国や他の地方の影響が受けつつ、その独自の建築技術は後に首都となる平壌への影響を与えるものであったという点で評価されています。
ちなみに、高句麗(紀元前1世紀~668年)は中期・後期になると、現在の平壌となっていくので、その時代の建造物も北朝鮮側にあり、世界遺産になっています。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。