ウクライナの世界遺産「リヴィウ歴史地区」とは?世界遺産マニアが解説

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登録区分文化遺産 危機遺産2023年〜
登録基準(2),(5)
登録年1998年

リヴィウは、ポーランドの国境から約70kmにある町。中世後期に設立されたリヴィウは、政治、宗教、商業の中心地として数世紀にわたって繁栄しました。今でもバロック様式の美しい建築物が多く残り、保存状態が良いことから世界遺産に登録されました。

ここでは、リヴィウ歴史地区がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、リヴィウについて詳しくなること間違いなし!

目次

リヴィウ歴史地区とは?

リヴィウ歴史地区
画像素材:shutterstock

リヴィヴはウクライナ西部に位置しており、ポーランドの国境近くにある都市。町の起源はハッキリとはしませんが、5〜6世紀には集落がここに存在してました。その後、13世紀には、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国の都となりますが、14世紀にはポーランド領となります。その頃のリヴィウは17世紀まで行政、宗教、商業の中心地となりました。

しかし、18世紀に町は破壊され、1772年のポーランド分割により、今後はオーストリア帝国に属するように。そして、第1次世界大戦の後はポーランド、1939年にはソ連に引き渡され、最終的にウクライナの領土となりました。

よって、現在の町に残る建築物は、イタリアやドイツの建築様式から影響を受け、東欧独自の建築様式と合わさったもの。世界遺産に登録されているのは、城跡やリノック広場周辺のバロック建築などが集まる中心部と、南西にある聖ユーラの丘の2つのエリア。

リヴィウ歴史地区
画像素材:shutterstock

リヴィウの旧市街は、5世紀ころから存在が確認されているほどに古いエリア。丘の上には城が築かれ、その周囲は13〜17世紀にかけて広場や道などが拡充されていきました。支配者が何度も変わったこともあり、旧市街には、モスク、シナゴーグ、カトリック教会、アルメニア正教会の教会など、さまざまな宗教施設が造られているのも特徴です。 

市内中心部は、14世紀からルネッサンスとバロック様式の修道院や邸宅などが造られ、東欧独自の町並みが今も残っています。特に市内南西部にある聖ユーラ大聖堂は、バロック様式で造られた美しい建築物。

危機遺産(危機にさらされている遺産)

2022年のロシアのウクライナ侵攻によって、都市は攻撃の対象とされていることから、2023年から危機遺産として登録。

リヴィウ歴史地区はどんな理由で世界遺産に登録されているの?

リヴィウ歴史地区
画像素材:shutterstock

リヴィウが評価されたのが、以下の点。

登録基準(ii)
リヴィウの建築物は東欧の建築様式とイタリア・ドイツの建築様式が融合しているという点。

登録基準(v)
国際都市であったリヴィウは、文化や宗教的が異なるグループがそれぞれ共存しており、それらは現在の町並みにも溶け込んでいるということ。

世界遺産マニアの結論と感想

リヴィウは、ポーランド、オーストリア、ロシアなど、多くの国々に支配を受けたことがあるため、ルネッサンス様式やバロック様式などの影響を受けた建築が残っていて、東欧の町とは思えないほど。そして、多民族が暮らす町だったため、さまざまな宗教施設があり、多くの民族が現在も住み続けているという点も評価されています。

リヴィウ市民はなぜかコーヒーを飲む人が多く、カフェの数はウクライナでも最も多いとか。おしゃれなオープンカフェもたくさんあるのですが、中には洞窟カフェというユニークなお店もあったりします。

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この記事を書いた人

世界遺産一筋20年以上!遺跡を求めて世界を縦横無尽で駆け抜ける、生粋の世界遺産マニアです。そんな「世界遺産マニア」が運営するこちらのサイトは1100以上もある遺産の徹底紹介からおもしろネタまで語り尽くすサイト。世界遺産検定一級取得済。

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