登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (2), (4), (6) |
登録年 | 1996年 |
オーストリア北西部にあるザルツブルクは、中世から19世紀まで司教が統治していた都市で、バロック様式の美しい教会や建築物が並んでいます。ここはモーツァルトの出身地でもあり、音楽の都としても有名。
ここでは、ザルツブルク市街の歴史地区がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、ザルツブルクについて詳しくなること間違いなし!
ザルツブルク市街の歴史地区とは?名前の由来は「白い黄金」?
ザルツブルクは、ドイツの国境近くにあり、ザルツブルク州の州都。「ザルツ(塩の)ブルク(城)」と名前からも、街の中心部を流れるザルツァッハ川を通じて岩塩の交易で栄えた都市。15kmほど南に位置するバート・デュルンベルクで岩塩を近くの都市ハラインで加工し、ザルツァッハ川を通じてヨーロッパ中に取引していました。当時は塩は「白い黄金」と呼ばれるほど貴重なもので、司教たちはこの通行料にて大いに繁栄しました。
7世紀に司教座が置かれると、8世紀には大司教座となり、旧市街には教会や修道院などが築かれました。ここは現在のドイツとイタリアを含んだ神聖ローマ帝国時代の宗教都市であり、19世紀以降は開発されることもなかったため、町並みが保存されたという背景があります。
市街地は、ザルツァッハ川の左岸と右岸で分けられています、左岸は司教が住んでいてたホーエンザルツブルク城や、ドイツ語圏では最も古いとされる聖ペーター僧院教会、モーツァルトの生まれた家、街の中心部であるレジデンツ広場などが点在。右岸は新市街となっていて、17世紀建造の壮麗なミラベル宮殿なども残ります。
登録されている主な構成資産
ザルツブルク大聖堂
大聖堂は8世紀に創設されましたが、現在見られるものは17世紀にバロック様式で再建されたもの。1万人収容可能というほど広大な大聖堂で、ヨーロッパ最大のパイプオルガンがあることでも有名です。
聖ペーター僧院教会
7世紀に創設されたベネディクト派の教会で、ドイツ語圏最古の男子修道院。創設当時はロマネスク様式ではあったものの、ゴシック様式の部分も残っていて、現在はバロック様式で改築された時代のものがベースとなっています。教会の裏側にある墓地には、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの弟であるミヒャエル・ハイドンの墓があることで有名。
ホーエンザルツブルク城
街の南の丘に11世紀に建造された城。神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世とローマ教皇グレゴリウス7世の間に起こった叙任権闘争の結果、当時教皇派であった司教が皇帝派に対抗するために建造しました。現在見られる城は17世紀後半のものですが、16世紀までは司教の住居として使用されていたものの、それ以降は牢獄や兵舎として使用されたため、保存状態はかなり良好。
レジデンツ広場
旧市街の中心である広場で、西側にある17世紀に建造されたレジデンツ(宮殿)の前にあることからこの名が付けられたもの。レジデンツはモーツァルトが5歳で音楽会を開いた場所として有名。そして、東側にある新宮殿には「グロッケンシュピール」とよばれるカリヨン(組み鐘)があり、モーツァルトの曲が1日3回演奏されることで知られます。
モーツァルト生家
ゲトライデ通り9番地に立つ黄色い建物の4階にある部屋は、1756年にモーツァルトの生まれた場所。彼は21歳くらいまでここに住んでいたため、現在はモーツァルト記念館として公開しています。
ミラベル宮殿
17世紀に当時の大司教が愛人の為に建造した宮殿。19世紀に修復され、現在は市長公邸として使用されています。2階にある大理石の間は、モーツァルトが演奏を行った場所。特に庭園が美しいことでも知られ、ギリシャ神話の登場人物の彫刻が並んでいます。
ザルツブルク市街の歴史地区はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
ザルツブルクが評価されたのが、以下の点。
登録基準(ii)
ザルツブルクは、イタリアとドイツなどの文化が交差することで、長期に渡って文化交流が行われていたという点。
登録基準(iv)
中世後期から20世紀にかけての建造物が多く残り、ヨーロッパの宗教都市として重要な例であるということ。
登録基準(vi)
ザルツブルクはモーツァルトの生誕地でもあり、特に音楽の発展においては重要な役割を果たしてきたという点。
世界遺産マニアの結論と感想
ザルツブルクは、ドイツとイタリアの文化が交差する土地で、それは建築様式に多く見られ、ヨーロッパの宗教都市としてほぼ完全な形で残ったという点で評価。そして、なんといってもモーツァルトが生まれた地であって、街には彼の足跡が多く残るというのもポイント。
ザルツブルクは、『サウンド・オブ・ミュージック』の舞台としても知られ、実際に映画版の撮影地としてミラベル宮殿なども利用されたことも。ちなみに、ミュージカルの名作として知られる同作品は、オーストリアではあまり人気がないんだとか。これはドイツに併合される頃のオーストリアを描いたため、ナチスの扱いを含めて全体的に取り扱いが難しいという事情もあるのですが、子供のころから『ドレミのうた』を歌ってきた日本人からすれば意外な話ですね。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。