登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (1), (2), (3), (4) |
登録年 | 2015年 |
イランの南西のザグロス山脈の近くに位置するスーサは、紀元前4500年前から存在するという歴史の深い街。ここはエラム王国、アケメネス朝、パルティア、ササン朝など、13世紀までの都市遺跡が層を成していて、さまざまな時代の建築物や宮殿、住居などが発掘されています。
ここではスーサがなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、スーサについて詳しくなること間違いなし!
スーサとは?アケメネス朝の首都だった都は、どのあたりある?
イラン南西部にあるフーゼスターン州のシューシュは、かつてスーサと呼ばれ、紀元前4500年前から都市が存在したというほどに歴史の深い都市。街の中心部シャブール川の東側には丘があり、ここにはかつて存在していた都市の遺跡があります。
紀元前30世紀から紀元前7世紀までメソポタミアの影響を受けて栄えたエラム王国の首都があった場所。そして、紀元前7世紀にアッシリアによって滅ぼされますが、紀元前6世紀にアケメネス朝ペルシャの開祖キュロス2世に占領されると、彼はイラン中央部にあったパサルガダエからここへ遷都しました。そしてアケメネス朝ペルシャを滅ぼしたアレキサンドロス大王がこの地でマケドニア軍の家臣と征服部族との結婚式「スーサの合同結婚式」を行った場所としても有名。
そして、セレウコス朝、パルティア、ササン朝ペルシャ時代も重要都市として繁栄し、イスラム時代になっても存在していたものの、13世紀になるとモンゴル軍によって侵略され、その後は住民のほとんどは北部のデズフールへと移住。
現在は東側にある丘からは紀元前4500年から13世紀までの都市遺跡が層を成していて、様々な時代の建築物や宮殿、住居、宗教施設などが発掘されています。遺跡は4つの遺構から構成され、アクロポリス、アパダーナ、2つの都市で構成。特にアパダーナはアケメネス朝のダレイオス1世に建造され、冬宮殿として使用された時代の謁見の間でもありました。
スーサはどんな理由で世界遺産に登録されているの?
スーサが評価されたのが、以下の点。
登録基準(i)
スーサは、人類初期の国家の創設と都市化の2つの発展が見られる中東で数少ない遺跡の一つであるという点。
登録基準(ii)
スーサの遺跡から発掘されたものは古代都市間の交易の跡が見られ、メソポタミア文明間の文化の交流を証言しているといいうこと。
登録基準(iii)
スーサの遺跡は、エラム王国とアケメネス朝の首都であっただけではなく、紀元前4500年前〜13世紀まで27層の都市遺跡が残されていて、数千年に渡って都市の発展が見られるという点。
登録基準(iv)
スーサは、エラム王国以前の初期都市から始まり、やがてアケメネス朝の首都として宗教施設も備えた都市建設の基盤ともなったということ。
世界遺産マニアの結論と感想
スーサの遺跡は、紀元前4500年から13世紀までさまざまな都市が積み重なった都市で、5000年以上もの都市の発展が見られるという点で大変貴重。そして、発掘物からメソポタミアの諸都市間の交易が見られ、アケメネス朝時代のアパダーナは他の都市のモデルともなったという点も評価に繋がっています。
ちなみに、世界史の教科書にほぼ載っている「ハンムラビ法典」の石棒は現在はルーブル美術館にありますが、実は1901年にスーサで発見されたもの。もともとはエラム王国が現イラクのバビロンから持ち出したため、現イランのスーサに存在していたと考えられてます。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。