登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (2), (4) |
登録年 | 2017年 |
スヴィヤジツクは、ロシア西部を流れるヴォルガ川に島のように位置する小さな集落で、1551年にロシア・ツァーリ国のイヴァン4世(雷帝)によって軍事拠点として設立。ここは近くにあったカザン・ハン国の征服戦争の拠点でもあったと同時に、島にある生神女就寝修道院は国を拡張するために築かれたという政治と宣教における計画の一つで、大聖堂のフレスコ画は東方教会の中でも貴重なもの。
ここではスヴィヤジツクの集落島の生神女就寝大聖堂と修道院がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、スヴィヤジツクについて詳しくなること間違いなし!
スヴィヤジツクの集落島の生神女就寝大聖堂と修道院とは?
スヴィヤジツクは、ヴォルガ川とスヴィヤ川の合流点に位置し、ここはシルクロードとヴォルガ川の交易ルートの中間点でもありました。現在の周囲は貯水池に囲まれていて、集落はまるで島のようになっていますが、土手の道で繋がっています。ここは1551年にイヴァン4世(1530〜1584年)が、カザン・ハン国(1438〜1552年)を征服するためにここを前哨基地として設立。
彼は征服した地域に対してキリスト教の伝道と行政を目的として、街の中心部に生神女就寝修道院を建造しました。これはイスラム教徒の多いカザン・ハン国において、ロシアによる文化や政治を含めた支配システムをよく示しています。大聖堂の壁画には旧約聖書や新約聖書の場面を描いていて、彼の王権を住民のタタール人に理解しやすいようにしているが特徴。ここはモスクワやノヴゴロドの伝統的なキリスト教の建築様式が見られますが、18世紀には西欧のバロック様式が採用され、ロシアにおける新しい芸術様式で改築されています。
スヴィヤジツクの集落島の生神女就寝大聖堂と修道院はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
スヴィヤジツクが評価されたのが、以下の点。
登録基準(ii)
スヴィヤジツクの集落島の生神女就寝大聖堂と修道院は、ロシアが東方へと拡大したことを示すユーラシア大陸の歴史や地政学的な交流が見られるもの。特に大聖堂の壁画は東方正教会とイスラム文化の相互作用を反映していて、西方から伝来したキリスト教の宗教的なテーマの交流という面も反映しています。生神女就寝大聖堂のイコノスタシス(イコンで覆われた壁)やイコンなどの芸術様式は、西方のノヴゴロド、プスコフ、モスクワなどのロシアにおけるルーツ的なキリスト教芸術と、ヴォルガ地方の伝統芸術の融合により生まれたものであるという点。
登録基準(iv)
スヴィヤジツクの集落島の生神女就寝大聖堂と修道院は、イヴァン4世によってロシア・ツァーリ国をヨーロッパから東方のイスラム諸国まで拡大するために考案された支配と伝道の施策を示しています。生神女就寝大聖堂の建築は伝統的なプスコフの建築、モスクワの記念碑的な建築、ヴォルガ地方の伝統的な建築の融合が見られるもの。フレスコ画は東方教会に置いても珍しい壁画で、それはロシアの宗教芸術において新しい神学的概念とイヴァン4世の政治システムなどを示し、聖書などを簡単に理解できるようになっているということ。
世界遺産マニアの結論と感想
スヴィヤジツクの集落島に残る生神女就寝大聖堂と修道院は、イヴァン4世がこの地を征服するために建造された軍事拠点がルーツではありますが、ここはカザン•ハン国の支配の拠点として領民のキリスト教化を目指し、壁画は聖書などキリスト教のテーマを分かりやすく示すことによって、ロシアの領土の拡大を狙っていた施策などが見られるという点で評価されています。
ちなみに、東へ30kmの位置にはカザン・ハン国の首都であったカザンがあり、スヴィヤジツクはまさにロシア側の前哨基地でありました。カザンはその後征服され、ここにはロシア各地と同じようにクレムリン(城塞)が建造。こちらも世界遺産に登録されています。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。