カール大帝(在位:768〜814年)は、現在の西ヨーロッパの多くの地域を統一し、フランク王国の王から(フランク)ローマ皇帝へとなった人物。そんなカール大帝とはどういった人物だったのでしょうか?
今回はカール大帝(シャルルマーニュ)がどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、カール大帝について具体的に理解できること間違いなし!
カール大帝(シャルルマーニュ)とはどんな人物?
フランク王国カロリング朝の2代目の王

4世紀末から5世紀にかけてヨーロッパ北方に暮らしていたゲルマン人の大移動が始まり、彼らは南部の西ローマ帝国に侵入し、ヨーロッパは大いに混乱します。ゲルマン人の一部族であったフランク人はガリア(現フランス)北部に定住し、彼らはいくつかの部族に分かれていましたが、やがて統一国家が形成され、フランク王国が成立。9世紀に解体していきますが、この王国こそが後のフランス・ドイツ・イタリアの起源となる国家でもありました。
とはいえ、カール大帝の出生については、時期や場所もあまり分かっていません。742年頃にフランク王国のピピン3世(小ピピン)の子として生まれるものの、正確な生年月日は不明です。751年にピピン3世がフランク王に即位し、カロリング朝を創設するも768年に死去。カールと弟カールマン1世が共同統治を開始するも、771年にカールマン1世は急死してしまい、単独で皇帝となります。
西ヨーロッパ世界を統一



カールは積極的に遠征を行い、46年間の治世で53回も行ったことからフランク王国の領土は大いに拡大しました。
ザクセン戦争(772〜804年)ではドイツ北部のザクセン人をキリスト教へと改宗させることを目的として活躍。774年に北イタリアにあったランゴバルド王国を征服し、自らをランゴバルド国王と自称します。778年には、当時イベリア半島に侵攻していたイスラム勢力(ウマイヤ朝)を追い払うため侵攻するも敗退。これは中世ヨーロッパで有名な叙事詩『ローランの歌』でも知られます。とはいえ、彼の領地は現在のスペイン東部のバルセロナまで広がりました。791年には、中央ヨーロッパに侵攻していた遊牧民族・アヴァール族を撃破し、現在のハンガリーの一部を征服。
この活動により、カールはイギリスやアイルランド、イベリア半島、イタリア南部以外の西ヨーロッパ世界を統一することに成功しています。
「カールの戴冠」



8世紀後半、ローマ教皇は東ローマ帝国との関係が悪化し、教皇レオ3世は庇護者としてカールに助けを求めます。そして、800年12月25日、カールがローマを訪問し、サン・ピエトロ大聖堂のクリスマスミサにてレオ3世はカールの頭に冠を置き「ローマ皇帝」として即位させました。
これは歴史的には大きな意味を持ち、フランク王国の国王が「ローマ皇帝」の正統な後継者と認められた瞬間でもありました。当時の東ローマ帝国は正式な皇帝がおらず、これによってとの対立を深めませんでしたが、後に「フランク王国」のローマ皇帝として認められます。これによって、「皇帝権」と「教皇権」の関係が確立され、後の神聖ローマ帝国の政治システムの基礎となりました。
カロリング・ルネサンスと死



カール大帝は征服活動ばかり注目されますが、広大な領土を統治するために各地に監視員を配備したり、貨幣を統一したりと、内政も改革。彼は学問・文化の復興に力を入れたことでも有名で、ラテン語の普及や文字の統一、僧侶教育などを含んでいて、これらは「カロリング・ルネサンス」と呼ばれます。
813年に三男であった「ルートヴィヒ1世(敬虔王)」を後継者に指名。814年には首都アーヘンの宮殿で死去すると、カール自ら建造したアーヘン大聖堂に埋葬されました。
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歴史的城塞都市カルカソンヌ/フランス



カルカソンヌ市は、フランス南西部のオード県の県庁所在地。一般的に「カルカソンヌ」といえば、現在の都市全体を指し、南東部に広がる城塞都市は「カルカソンヌ=シテ」と呼ばれています。
カルカソンヌという名の由来には、カール大帝がイスラム教徒が支配していた城塞を落とすために包囲した際に、大公の后であったカルカスが太った豚を城から落として大帝を欺き、カール大帝の軍は見事に撤退。そして、街中に祝福の鐘を鳴らせたことから「カルカスが鐘を鳴らす」という意味のカルカソンヌになったという伝説から由来しているとか。
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アーヘン大聖堂/ドイツ



ベルギーとの国境近くのノルトライン=ヴェストファーレン州にあるアーヘンは、かつて西ヨーロッパの大部分を支配したフランク王国の首都的存在になるほどにカール大帝に愛された街。この地には793〜813年にかけて礼拝堂が建設され、大帝も814年にここに埋葬されました。
礼拝堂は時代ごとに増築が重ねられ、13世紀には主祭壇に「カールのシュライン(カール大帝の聖遺物箱)」という切妻屋根付きの棺が置かれました。
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ローラント像/ドイツ



ドイツ北西部にあるブレーメン州の州都ブレーメン。中世ではハンザ同盟にも加盟していた商業都市で、12世紀に神聖ローマ帝国内でも自治を認められた自由都市でもありました
マルクト広場に立つ高さ5.47mの立像は、中世を代表する叙事詩『ローランの歌』に登場する英雄ローラントを表したもの。ローラントは、伝説的な人物であり、彼はカール大帝の部下であったとされ、特に中世のドイツにおいて各都市が自由都市になると、ローラント像が多く建造されました。
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世界遺産マニアの結論と感想
カール大帝は、西ヨーロッパを統一したことで知られ、キリスト教を敬愛したことからも中世ヨーロッパの基盤を築いた重要な人物でした。彼の王国は解体されるも皇帝は「神聖ローマ帝国」の皇帝として残り続け、さらには現在のフランス、ドイツ、イタリアの形成に大きな影響を与え、現在も「ヨーロッパの父」として称えられています。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。