コンスタンティヌス1世(270年代前半〜337年)は、先代のディオクレティアヌス帝によって分割されていた帝国を再統一した人物。彼自身は当時流行していたキリスト教徒へと改宗し、信仰を認めたことから宗派によっては聖人ともされています。そんなコンスタンティヌス1世とはどういった人物だったのでしょうか?
今回はコンスタンティヌス1世がどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、コンスタンティヌス1世について具体的に理解できること間違いなし!
コンスタンティヌス1世とはどんな人物?

コンスタンティヌス1世は、ローマ帝国(紀元前27年〜1453年)の皇帝であり、モエシア属州ナイッスス (現セルビアのニシュ)生まれ。父コンスタンティウス・クロルスは西方の副帝(カエサル)として統治していて、305年に正帝(アウグストゥス)となるも、翌年死亡してしまったため、彼自身が軍の支持を受け、皇帝として即位するも、公式には認められませんでした。よって、彼はメディオラヌムのマクシミアヌス、シルミウムとニコメディアを支配していたリキニウスらのように皇帝を名乗ったライバルたちを破り、324年に単独皇帝となります。



312年には当時帝国内で信仰されていたキリスト教に改宗し、313年にミラノ勅令(リキニウスと連盟)によって信仰の自由が認め、キリスト教を容認しました。そして、彼が主催したニカイア公会議によって、アリウス派(イエス・キリストは被造物であるという説)が異端とされ、アタナシウス派(ニカイア派、イエス・キリストは神と同質とする説)が正統となっていきます。
そして、330年にコンスタンティヌスは、ローマ帝国の新たな首都としてビザンティウム(現在のイスタンブール)を「コンスタンティノープル」として再建。ここは東西交易に適した地であり、2つの海をまたぐ地にあることから軍事的に重要な場所であり、後の東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の基礎が築かれたのです。
コンスタンティヌス1世にまつわる世界遺産はこちら!
トリーアのローマ遺跡群、聖ペテロ大聖堂(トリーア大聖堂)、聖母聖堂/ドイツ



ルクセンブルクとの国境も近いラインラント=プファルツ州にあるトリーアは、モーゼル川の上流に位置し、かつてはローマの植民都市「アウグスタ・トレウェロールム」と呼ばれていました。ここは紀元前1世紀に設立され、6万人の人口を抱えるアルプス以北でも最大のローマ帝国の都市へと成長。
コンスタンティヌス1世はここを拠点とした時期もあり、現在でも「皇帝浴場」や「アウラ・パラティナ」、「聖ペテロ大聖堂(トリーア大聖堂)」などが残り、これらの建造物は彼が築いたコンスタンティノープル(現イスタンブール)にも引き継がれていきました。
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コンスタンティヌスの凱旋門/イタリア



古代ローマ市の中心部であるフォロ・ロマーノとコロッセオとの間に位置する凱旋門。これは315年に西帝の地位にあったコンスタンティヌス1世が、312年のミルウィウス橋の戦いでマクセンティウスに勝利したことを記念して建造されたもの。
高さ21mの凱旋門は3つの門があり、ローマの中でも最大のもの。ほとんどの部分が白大理石から構成され、基礎と下部は石灰華、最上部はレンガ、円柱は黄色の大理石を使用。各部分は他の建築物の一部をコンスタンティヌス帝が転用したと考えられ、近年では2世紀には門が既に存在していたと考えられています。
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サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂/イタリア



ローマの中心部の南側にある大聖堂。サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂とは「城壁外の聖パウロ大聖堂」という意味で、ローマの五大バジリカの一つ。ここはキリスト教などを皇帝として初めて認めたコンスタンティヌス1世によって、聖パウロの墓を祀る聖堂として建造。現在は再建されたものの、かつては広大な大聖堂でした。
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バチカン市国



バチカンの丘は、イエス・キリストの最初の使徒であり、初代ローマ教皇とされるペテロの墓があったとされる場所。もともとはネクロポリスとしてローマ市内の埋葬地として利用されていた場所ですが、4世紀にローマ帝国でキリスト教が国教となると、コンスタンティヌス1世によってバシリカ式の教会堂が建築されました。
15世紀に当時の教皇であったニコラウス5世によって、大きな聖堂へと改築されることになりました。最終的にミケランジェロ・ブオナローティによって建設計画が引き継がれ、世界最大規模の大聖堂が完成したのは1626年。
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イスタンブール歴史地域/トルコ



トルコ共和国の最大都市イスタンブールは、かつてはローマ帝国、ビザンツ帝国、オスマン帝国の首都となった場所。
街の起源は紀元前7世紀。ギリシャの都市国家メガラのギアスが建設したことにより、「ビザンティオン」と名付けられたこの街は、現在のトプカプ宮殿ある丘に築かれた小さな街でした。やがてローマ帝国に支配されるようになると、ローマ都市になり、4世紀にはコンスタンティヌス1世はローマからビザンティオンへ遷都。名前も「コンスタンティノポリス」と改名し、大都市へと成長します。
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世界遺産マニアの結論と感想
コンスタンティヌス1世は、なんとっても「キリスト教の公認」と新たな首都・コンスタンティノープルの建設を行ったという功績は大きいです。この2つは後のヨーロッパ史に大きな影響を与え、キリスト教を中心とした「中世」の土台を築いたといっても良いでしょう。彼自身の信仰についてはそれほど伝わっていませんが、母ヘレナは熱心なキリスト教徒で、エルサレムでゴルゴダの丘を発見したとされ、その地に教会を建造し、今ではこの地に多くの信徒が集まっています。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。