ダレイオス1世(紀元前550年頃〜紀元前486年)はアケメネス朝ペルシア(紀元前550年〜紀元前330年)の王であり、西はエーゲ海、東はインダス川までにいたる大帝国を築いた人物。世界遺産でもあるペルセポリスの建設者でも知られますが、彼はどういった人物だったのでしょうか?
今回はダレイオス1世がどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、ダレイオス1世について具体的に理解できること間違いなし!
ダレイオス1世とはどんな人物?

アケメネス朝は、かつて存在した現在のイランを中心とした巨大な帝国で、古代オリエントを統一した超大国でした。ダレイオス1世はアケメネス朝ペルシアの3代目の王であり、彼の時代に領土が最大となったほどに偉大な人物でもあります。
しかし、ダレイオス1世は王として即位したものの、前王の子供ではなく、2代目の王であるカンビュセス2世の槍持ちという身分から成り上がった人物。そして、カンピゥセス2世の兄弟であるスメルディス(ガウマタ)が偽りの身であったのに即位したことから、ダレイオスが彼を殺害し、即位して帝国を引き継いだとされます。しかし、これは彼によって碑文に刻まれたもので、実際は彼自身が簒奪者であったという説も。
出自については不透明なものの、彼は各地の反乱を次々に鎮圧し、国内の安定を取り戻しました。特にバビロニアやエラムなどの反乱を鎮圧し、支配を強化。



その後、彼は帝国を効率的に管理するため、帝国を20の州(サトラップ)に分け、それぞれに地方総督(サトラップ)を配置するという「サトラップ制」 を導入。そして、現在のイランにある首都スーサからサルデス(現在のトルコ西部にある都市)まで繋がる、全長約2700kmの道路「王の道」を整備。これによって交易が盛んとなり、繁栄していきます。
そして、新たな首都としてペルセポリスの造営を開始。ここは宗教都市とされますが、碑文や像などにはダレイオス1世をモチーフとしていて、彼の時代の栄光が見られます。しかし、ペルシア戦争(紀元前499年〜紀元前449年)でも初期のマラトンの戦いでは敗北したため、ギリシャに対し、遠征を編成する途中に急死してしまい、帝国は彼の息子であるクセルクセス1世(紀元前519年〜紀元前465年)に引き継がれました。
ダレイオス1世にまつわる世界遺産はこちら!
ペルセポリス/イラン



ペルセポリスは、イラン南部のファールス州の高原に位置する広大な遺跡。州都であるシーラーズから北東へ60kmに位置していて、ペルシャ語では「タフテ・ジャムシード」と呼ばれています。ダレイオス1世が、遺跡の北東にあったパサルガダエから遷都し、築いた都です。
ペルセポリスとは「ペルシャ人の都」を意味しており、ダレイオス1世から息子のクセルクセス1世にかけて60年もかけて建造されたことから重要な都市であったことは確かです。
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ベヒストゥン/イラン



イラン西部のケルマンシャー州に位置する遺跡で、ここには60mもの石灰岩の崖に多言語の碑文が刻まれたもの。ここはイラン高原とメソポタミアを結ぶ交易路に位置し、遺跡は先史時代からアケメネス朝、それ以降のものも含まれています。
その中でも地上100m以上の位置にあり、高さ15m、幅25mの碑文とレリーフが最も有名。これは紀元前531年にダレイオス1世(紀元前522〜486年)が前王を殺し、王と偽って即位した神官・ガウマタ(スメルディス)から王位を奪還して即位したことを示すもの。レリーフで、ダレイオスが踏みつけている人物こそがガウマタとされています。
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スーサ/イラン



イラン南西部にあるフーゼスターン州のシューシュは、かつてスーサと呼ばれ、紀元前4500年前から都市が存在したというほどに歴史の深い都市。
現在は東側にある丘からは紀元前4500年から13世紀までの都市遺跡が層を成していて、4つの遺構から構成され、アクロポリス、アパダーナ、2つの都市で構成。特にアパダーナはダレイオス1世に建造され、冬宮殿として使用された時代の謁見の間でもありました。
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世界遺産マニアの結論と感想
ダレイオス1世の時代は、アケメネス朝の黄金時代と呼ばれる繁栄期の始まりであり、彼は帝国の基盤を築き、後のクセルクセス1世などの統治者に大きな影響を与えました。そして、彼の功績はペルセポリスやベヒストゥンなど、現在において世界遺産にも多く見られるのが特徴です。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。