西太后(1835〜1908年)は、清朝末期に強大な権力を握った女性であり、中国史上でも特に「悪女」として有名な女性の一人。正式な名前は「慈禧皇太后(じきこうたいごう)」ではありますが、西宮に住んでいた皇后であったことから「西太后」の名で広く知られています。西太后とはどういった人物だったのでしょうか?
今回は西太后がどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、西太后について具体的に理解できること間違いなし!
西太后とはどんな人物?
出自と若い頃

西太后は、満州の葉赫那拉(イェヘナラ)氏の家系に生まれ、本名は幼名は蘭児。出身地は不明ですが、幼いころから聡明で、美貌で知られていました。 1851年に18歳の時に清の咸豊帝(かんぽうてい、1831〜1861年)の後宮に入り、「蘭貴人」として仕えることになります。
宮中での地位は低かったものの、やがて咸豊帝の寵愛を受け、1856年に皇帝の唯一の男子、載淳(さいじゅん、後の同治帝)を産みました。皇子の生母であることで「懿貴妃」に昇格し、宮廷内での影響力を強めていきます。
政治の実権掌握



1861年に咸豊帝が病死すると、彼女の息子である載淳が同治帝(どうちてい、1856〜1875年)として即位します。しかし、当時の清朝はアヘン戦争後の混乱期であり、列強諸国からの圧力が強まっていました。懿貴妃は咸豊帝の側近であった恭親王奕訢(こうしんのう・えききん)らと結託し、咸豊帝の命を無視して政敵を排除、宮廷クーデター(辛酉政変)を起こし、実権を握ることに成功します。
皇帝が幼少だったため、政務は皇后の「慈安皇太后(東太后)」と「慈禧皇太后(西太后)」が摂政として担当(垂簾聴政、すいれんちょうせい)。東太后は政治に関心がなかったため、以降は西太后が事実上の最高権力者となり、同治帝が19歳で亡くなると、後の光緒帝(こうしょてい、1871〜1908年)と二代にわたって摂政として君臨しました。
「悪女」とされる理由



1888年に西太后は国家財政から巨額の資金を流用し、頤和園の再建を行いました。費用は日清戦争の費用の約3倍もあったとされ、本来はこの資金は海軍の近代化のために使われるはずでしたが、西太后はこれを自らの贅沢のために使っています。
さらに1898年に彼女の甥である光緒帝は「戊戌の変法(ぼじゅつのへんぽう)」として大規模な改革を進めようとしました。しかし、西太后はこれを危険視し、改革派を弾圧。その際、主導者らを処刑し、改革の芽を完全に摘み取っています。このため、中国の近代化を阻害した人物であることから「悪女」と後世に評価されました。
晩年と死因



西太后は1908年に72歳で死去しました。彼女の死因は公式には「老衰」とされていますが、一部では「中毒死」や「脳卒中」などの説もあります。その前日に光緒帝も急死。後の研究で光緒帝の遺骨から致死量のヒ素が検出されており、西太后が光緒帝を毒殺したという説もあります。
彼女は亡くなる前に「溥儀を皇帝にせよ」との遺言を残し、2歳の溥儀が清朝最後の皇帝となりました。しかし、わずか3年後の1911年、辛亥革命によって清朝は滅亡し、中国は近代国家へと移行することになります。
西太后は美人だった?その長い爪の理由は?



西太后の晩年の写真(19世紀末~20世紀初頭)を見ると、気品のある顔立ちですが、現代的な美人のイメージとは異なるかもしれません。ただし、彼女が撮影された時はすでに60歳を超えていて、皇帝の皇子(同治帝)を産んだことから、少なくとも当時の宮廷の基準では「美しい」とされていた可能性が高いでしょう。
西太后の特徴として有名なのが「長い爪」です。これは付け爪で正しくは「指甲套(しこうとう)」と呼ばれていて、爪カバーとしての役割がありました。つまり、日常生活において手作業をする必要のない身分であるというアピールであり、身分の高い女性の「おしゃれ」でもあります。そして、指甲套は金や銀、宝石などが付けられていたため、豪華なものもありますが、別に西太后だけが付けていたというわけではなく、清朝の后妃ならではのおしゃれであったそう。
ラストエンペラーとの関係



清朝最後の皇帝である溥儀(ふぎ、1906〜1967年)は、映画『ラストエンペラー』でも有名ですが、西太后との関係は直接的には薄いものの、彼女の影響下で皇位が決定されました。
西太后は光緒帝を傀儡(かいらい)として支配していましたが、彼は近代化を推進しようとし、西太后と対立しました。これにより、西太后は光緒帝を幽閉し、実質的に廃位状態だったため、彼女は光緒帝の後継者として、当時わずか2歳だった溥儀を指名。溥儀の即位は彼女の死後の出来事ですが、西太后の意思が大きく関与していたのです。
西太后にまつわる世界遺産はこちら!
頤和園/中国



頤和園は、中国の首都・北京から北西へ約15kmの位置にある、総面積約290万kmも誇る広大な庭園。1886年に当時政権を握っていた西太后によって莫大な予算を使用し、復元され、頤和園と改称しました。西太后はここに政務室を作り、豪華絢爛な庭園となりました。
昆明湖の西側に浮かぶ、「清晏舫(せいあんほう)」は船を模した豪華な建築物。これは西太后が建造しただけあって、素材はすべて大理石で建造して、宴会などを開くために利用したと伝わっています。
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世界遺産マニアの結論と感想
西太后は、清朝末期の激動の時代において40年以上もの間、最高権力者として君臨しました。政治的な手腕は高かったものの、保守的な政策によって清朝の近代化を阻み、結果的に清の滅亡を早めた人物でもあります。その一方で、宮廷の内外で多くの逸話を残し、現在でもその豪放磊落なエピソードは語り継がれています。
とはいえ、彼女が「悪女」とされるのはあくまでもシンボルであり、実際は彼女の周囲の側近たちも恩恵を預かったとも考えられ、宮中ではよく発生する現象でもありますけどね。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。