フェリペ2世(1527〜1598年)は、ハプスブルク家出身の絶対君主であり、スペイン帝国の最盛期の王でした。当時のスペインはヨーロッパのみならず、アメリカ大陸やアジアまで広がる「太陽の沈まぬ国」と呼ばれるほどでした。フェリペ2世とはどういった人物だったのでしょうか?
今回はフェリペ2世がどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、フェリペ2世について具体的に理解できること間違いなし!
フェリペ2世とはどんな人物?

1527年にスペイン中央部のバリャドリッドで誕生。父は神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)で、幼いうちから徹底したカトリック教育を受け、熱心なカトリック信者でもありました。1556年に父カール5世が退位し、スペイン王位を継承。その領土は広大で、スペイン本土はもちろん、南イタリア、ネーデルラント(現在のオランダ・ベルギー・ルクセンブルク)、アメリカ(中南米)、フィリピンなどを引き継ぎました。
彼の治世は、アジアやアメリカ大陸で領土が広がっていく一方、ヨーロッパでは領土を失っていきました。1581年にネーデルランド北部7州がオランダ共和国として独立を宣言してしまい、フェリペ2世は鎮圧を試みるも、最終的に独立を阻止できませんでした。一方、1580年にはポルトガル王セバスティアン1世の死後、王位継承問題が発生し、彼はポルトガルを併合。スペインとポルトガルの統一により、世界最大級の海洋帝国が誕生しました。
地中海でのオスマン帝国の勢力拡大を防ぐため、スペインはヴェネツィアやローマ教皇と同盟を結成。レパントの海戦(1571年)では、オスマン帝国の艦隊を撃破し、地中海の制海権を確保しました。



一方、イングランドのエリザベス1世はオランダの反乱を支援し、スペインの敵対勢力となり、1588年にフェリペ2世は「無敵艦隊(アルマダ)」を派遣してイングランド侵攻を試みますが、エリザベス1世率いるイングランド海軍と嵐の影響で敗北(アルマダの海戦)。これにより、スペインの海洋支配が揺らいでいきます。
彼は熱心なカトリックだったため、異端審問を繰り返した上に、度重なる戦争による支出が莫大で、スペイン経済は疲弊してしまいます。そんななか、1598年に自ら築いたエル・エスコリアル宮殿で死去。享年71歳。フェリペ2世の死後、息子フェリペ3世が即位するも、彼は父ほどの政治手腕を持たず、やがて帝国は衰退していきます。
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マドリードのエル・エスコリアルの修道院と王室用地/スペイン



首都マドリッドの郊外に位置するエル・エスコリアルの修道院は、グアダラーマ山脈の麓に位置する宮殿、神学校、図書館などがある複合施設。フェリペ2世が、1563〜1584年にかけて王宮と修道院を兼ねて建造しました。
ここは王宮でもあり、修道院でもあったことから広大な敷地を誇り、庭園、神学校、図書館、交易所などを含めて壮大な建造物でした。そして、スペイン王家の埋葬場所でもあり、歴代の国王の霊廟もあります。
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サンタ・マリア・デ・グアナフアト聖堂/メキシコ



グアナフアトは、メキシコ中央部の標高2100mのアナワク高原にある小さな鉱山町。ここは、16世紀初頭にスペイン人によって銀鉱山が発見された後、町が設立されました。18世紀には世界の4分の1の銀がここから採掘されるほどに繁栄。
サンタ・マリア・デ・グアナフアト聖堂は、旧市街の中央部にある、17世紀に建造された、黄色がメインカラーの聖堂。華麗なファサードがシンボル。内部にはフェリペ2世が寄進した聖母マリア像があることで知られています。
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世界遺産マニアの結論と感想
フェリペ2世は「太陽が沈まない帝国」としてスペイン帝国の絶頂期を築いたものの、度重なる戦争や宗教政策による影響で帝国の衰退を招いた王でもあります。一方、フェリペ2世は芸術の庇護者であり、彼の時代は世界的に有名なエル・グレコなどの画家が活躍し、スペイン美術の発展に貢献しました。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。