レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452〜1519年)は『最後の晩餐』『モナ・リザ』など、世界的名画を残した人物で芸術だけではなく、科学技術や解剖学、建築など幅広い分野で卓越した業績を残した、ルネサンス期において最も多才な人物の一人であります。そんなレオナルド・ダ・ヴィンチとはどういった人物だったのでしょうか?
今回はレオナルド・ダ・ヴィンチがどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、レオナルド・ダ・ヴィンチについて具体的に理解できること間違いなし!
レオナルド・ダ・ヴィンチとはどんな人物?その生涯を解説
本名は「レオナルド」のみ?

彼はイタリア・フィレンツェ共和国内にあったヴィンチ村で生まれます。ダ・ヴィンチとは「ヴィンチ村出身」を意味していて、フルネームは「レオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ」。「セル・ピエーロ」は父親の名前であり、あくまでも彼の名前は「レオナルド」のみでもあります。
正式な教育は受けませんでしたが、幼い頃から自然への興味が強く、独学で学んだとされています。
フィレンチェで修行・初期作品



14歳頃にフィレンツェの著名な芸術家アンドレア・デル・ヴェロッキオの工房に弟子入りしました。当時は最も優れた工房であり、工房では絵画やドローイングだけでなく、科学や工学、金属加工など、仕事はさまざまな分野に及んでいたために、彼の知識は蓄えられていったのです。
20歳頃にフィレンツェの画家組合「聖ルカ組合」に登録され、正式に画家として独立。1475年頃に師匠ヴェロッキオの作品の一部を担当し、天使の部分を描いたと言われ、あまりにも優れていたためにヴェロッキオは二度と絵画を描くことがなくなったというエピソードもあります。
ミラノで『岩窟の聖母』『最後の晩餐』を制作



1482年からミラノ公国で活動し、建築や彫刻といった仕事も手掛けました。1483年にミラノのサン・フランチェスコ・グランデ教会付属の無原罪の御宿り礼拝堂から祭壇画として『岩窟の聖母』を制作。これはさまざまなバージョンがありますが、ルーブル美術館にあるのがオリジナルとされるもの。
さらに西洋美術史上最も有名な作品の一つである『最後の晩餐』は、ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂に描かれた壁画。キリストと十二使徒の劇的な瞬間を描写したもので、これは1495年から3年がかりで完成されたもの。1499年にフランス軍がミラノを占領したため、ダ・ヴィンチはミラノを離れ、ヴェネツィアやフィレンツェを転々とします。
各地を転々としながら『モナ・リザ』を制作



フィレンツェにて1503〜1504年から『モナ・リザ』の制作を開始しました。これは彼がフランスで亡くなるまで加筆が続けられていたとされ、最高傑作であると同時に未完に終わったとされるもの。
1507年からはフィレンツェへ戻り、ヴェッキオ宮殿の壁画『アンギアーリの戦い』を2年間かけて担当するも、後に改修する際に失われてしまいまいた。しかし、これはダ・ヴィンチ最大の大作であり、現在は修復が試しみられています。
ダ・ヴィンチの死因は?



1516年 にフランス王フランソワ1世の招待を受け、フランスへ移住します。当時の王宮があったアンボワーズのクロ・リュセ城で暮らし、王の親しい友人として過ごしました。
1519年5月2日にクロ・リュセ城にて67歳で死去しました。フランソワ1世は深く悲しみ、遺体はアンボワーズ城のサン=ユベール礼拝堂にに埋葬。死因は特定されていないものの、右手が麻痺していたという記録があり、脳卒中を発症していたという可能性もあります。
ダ・ヴィンチの性格は?



ダ・ヴィンチは手稿だけでも約5000ページも残されていて、その内容は、ドローイングだけではなく、日常的なものから、さまざまな事象にスポットを当てています。その中には、動物や植物、川の渦巻き、天文学、地質学、解剖、兵器、工学など、さまざまな研究がされていることから「飽くなき探究心」を持っていたと考えられるでしょう。
しかし、一つの作品に対して異常なほどこだわりを持ち、なかなか完成させなかったことでも有名で、ルネサンス期の他の芸術家に比べ、確認できる作品数は15程度の少なく、本人の作品と特定されるものはなかなかありません。
天才ダ・ヴィンチが発明したもの



ダ・ヴィンチは、芸術だけでなく科学や工学の分野でも先進的な発明を多く行いました。彼の手記の中には、鳥やコウモリの翼の構造を研究し、人間が空を飛べる機械を設計しました。これは現在でいう「ヘリコプター」「パラグライダー」の原型とも言えるもの。
彼はミラノにいた時代は工学技術者でもあったため、要塞も考案。それもあり、迫撃砲や水圧ポンプなどのアイデアも手稿にあります。とはいえ、彼の発明の多くは、実際に製造・使用されることはありません。あくまでも「草案」といった程度でしょうか。
レオナルド・ダ・ヴィンチにまつわる世界遺産はこちら!
ウフィツィ美術館/イタリア



アルノ川沿いに位置する3階建ての美術館で、ここは1580年に完成した政庁舎を改装したもの。「ウフィツィ」とはイタリア語の「オフィス」を意味しています。ミケランジェロの弟子であるジョルジョ・ヴァザーリ(1511〜1574年)による設計で、彼は名門メディチ家のコジモ1世(1519〜1574年)のお抱えの芸術家でした。
レオナルド・ダ・ヴィンチの『受胎告知』も美術館に展示されていますが、これは1869年にウフィツィ美術館がフィレンツェ近郊の修道院から購入したもの。
詳細はこちら↓



ヴェッキオ宮殿/イタリア



フィレンツェのシニョーリア広場に位置する宮殿。ここはまず14世紀の始めに政庁舎として利用され、16世紀半にはフィレンツェの名門・メディチ家のコジモ1世はここを住居としました。「500人大広間」はメディチ家を称賛するというテーマの壁画で埋め尽くされた部屋。
500人大広間には、かの有名なレオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロの2つの未完成の壁画が存在していたとされています。しかし、16世紀に改築された際に壁ごと破壊されたものとして、その中でも有名な『アンギアーリの戦い』は模写だけが残されていました。
詳細はこちら↓



サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会/イタリア



イタリア北部の中心都市ミラノの中心部にある、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会は、15世紀にドミニコ会の修道院として建設されたもの。15世紀後半にミラノ公からの依頼でルネサンスの巨匠であるブラマンテが教会を拡大し、それまでのゴシック建築からルネサンス様式のドームや回廊、食堂が増築されました。
この教会の名を世界に轟かせているのは、なんといっても食堂の壁には1495〜1497年にかけて描かれたレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』。
詳細はこちら↓



ルーヴル宮殿(美術館)/フランス



現在は美術館として利用されているルーブル宮殿は、もともとセーヌ川右岸に建造されたフランス王室の宮殿でした。16世紀にフランソワ1世がルネサンス様式の宮殿に改装すると壮麗な建築物へと変化します。フランス革命によって宮殿は大衆に開かれ、1793年に美術館として開館。
ダ・ヴィンチの代表作である『モナ・リザ』は、彼のパトロンでもあったフランソワ1世によって購入されたもので、初期から置かれている大事なコレクション。美術館となった現在は、さまざまなコレクションがありますが、今でもルーブルで最も人気のある作品となっています。
詳細はこちら↓



アンボワーズ城/フランス



フランス中部アンドル=エ=ロワール県にあるアンボワーズ城。ここは11世紀に城が築かれると何度も拡張を続け、やがてシャルル7世、ルイ11世、シャルル8世、フランソワ1世など、ヴァロワ朝時代(1328〜1589年)の歴代の王が居城としました。
アンボワーズ城の近くにあるクロ・リュセ城は、レオナルド・ダ・ヴィンチが晩年を過ごした地として有名。もともとはフランソワ1世の姉であり、文人であったマルグリット・ド・ナヴァル(1492〜1549年)の家であったこともあり、実は2つの建物は地下通路で繋がっているという秘密も。
詳細はこちら↓



世界遺産マニアの結論と感想
レオナルド・ダ・ヴィンチは、作品数が少ないものの、西洋美術史における傑作を多く残したルネサンス期でも最も有名な芸術家でもあります。彼は絵画だけでなく、科学、工学、解剖学など多方面で貢献し、後世に大きな影響を与えました。彼の発想や研究は、手記を通じて500年以上経った現在でも多くの分野に影響を与え続けていて、まさに「万物の天才」であったと言えるでしょう。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。