マルティン・ルターとはどんな人物?カルヴァン派との違いも含めて世界遺産マニアが解説

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マルティン・ルター(1483〜1546年)は、ドイツの神学者で、宗教改革の中心人物。彼は1517年に「95か条の論題」においてカトリック教会の贖宥状(免罪符)販売を批判しました。彼は破門されますが、彼の思想は多くの人々に支持され、プロテスタントのルター派が誕生。マルティン・ルターとはどういった人物だったのでしょうか?

今回はマルティン・ルターがどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、マルティン・ルターについて具体的に理解できること間違いなし!

目次

マルティン・ルターとはどんな人物?

出身はどこ?

ルター像
画像素材:shutterstock

1483年にドイツ中央部のアイスレーベンで生まれ。1501年にエアフルト大学に入学し、鉱山業に従事していた父親の期待で法学を学ぶ予定だったものの、落雷に遭遇し、「助かったら修道士になる」と誓い、聖アウグスチノ修道会に入り、修道士になりました。

その後、ヴィッテンベルクで神学の博士号を取得して、聖書注解の講座を行っていました。この頃、人は善行ではなく信仰によってのみ「義」とされる「信仰義認」の発想に至ります。しかし、当時のカトリック教会は、信者の罪を軽減するための「贖宥状(免罪符)」を販売し、多額の資金を集めているという現状に彼は怒りを覚えていました。

95ヶ条の論題と宗教改革の始まり

95ヶ条の論題のイメージ
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1517年10月31日。ルターはヴィッテンベルク城教会の門に、贖宥状を批判したとされる「95か条の論題」を掲示しました。当初はそれほど話題になりませんが、その行為が最新技術である活版印刷によって拡大していき、各地で波紋を呼びます。これが現在では「宗教改革の始まり」となりました。

1518年にルターはローマの教皇庁から異端の疑いをかけられ、1521年に「ヴォルムス帝国議会」に召喚されるも、自説を撤回しなかったため、神聖ローマ皇帝カール5世により帝国追放刑を受けてしまいます。そして、教皇レオ10世よって破門。

聖書翻訳と「プロテスタント」の誕生

マルティン・ルターの部屋/ヴァルトブルク城
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その後、ルターはザクセン選帝侯フリードリヒ3世の保護を受け、世界遺産にも登録されているヴァルトブルク城に匿われます。1522年にこの城でラテン語の聖書をドイツ語に翻訳し、一般の人々が聖書を直接読めるようにしました。これも彼の功績の一つでもあります。

その後、ルターの支持者がカトリックに抗議したことから1529年に「プロテスタント」という言葉が誕生。彼らは「聖書のみ」「信仰のみ」「恵みのみ」という信仰義認の立場をとるのが特徴です。

ルター派の誕生と死

アイスレーベンのルターの墓
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1534年に「ルター訳聖書(ドイツ語訳聖書)」が完成し、広く普及します。これにより、ドイツを中心に「ルター派教会(ルーテル教会)」が成立。しかし、ルターの晩年は健康を害した上に、カトリックとの対立や宗教戦争が勃発したことからに大いに苦します。そして、1546年に故郷アイスレーベンで死去(享年62歳)。

その後、ルターの思想はヨーロッパ各地に広まり、スイス(カルヴァン派)、イングランド(英国国教会)など、さまざまなプロテスタント宗派が誕生。そして、1648年の「ウェストファリア条約」により、プロテスタントの存在が正式に認められます。

ルター派とカルヴァン派とはどう違う?

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プロテスタントの派閥としては、ジャン・カルヴァン(1509〜1564年)によるカルヴァン派もまた同じプロテスタントに含まれます。しかし、教義は異なっていて、ルター派は「信仰義認(信仰によって救われる)」である一方、カルヴァン派は「予定説(神が救われる人を決めている)」という点で大きく異なっています。

ルター派はカトリックに近い要素を残し、国家と協力しながら発展したという歴史を持ち、スウェーデンやデンマークでは国教となりました。一方、カルヴァン派はより厳格で民間の運営を行っていて、カルヴァン派のほうがスイスだけではなく、オランダ(フーゼン)やスコットランド(長老派)、フランス(ユグノー)、アメリカ(ピューリタン)に影響を与え、拡大したという経緯もあります。

マルティン・ルターにまつわる世界遺産はこちら!

アイスレーベン/ドイツ

ルターの生家/アイスレーベン
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ドイツ東部にあるザクセン=アンハルト州にある都市で、ルターの出身地であることから「ルターシュタット(ルター都市)」が頭に付けられ、ルターシュタット・アイスレーベンと呼ばれます。

アイスレーベンはこの地域の中心都市で、ルターは1483年に市内の小さな家に生まれたのですが、一家は1484年までしか滞在しませんでした。現在の生家は17世紀に再建され、ルターと宗教改革を記念する施設となり、19世紀にはルター学校の校舎が併設され、現在は博物館となっています。そして、1546年にルターがこの街で死去する際に住んでいた家は「死去の家」として記念館に。

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ヴィッテンベルク/ドイツ

城付属聖堂/ヴィッテンベルク
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アイスレーベンの北東に位置するヴィッテンベルクは、ルターが修道士兼教授として働いていた場所。ここにはルターが住居として使用していた場所や彼が説教を行った教会などが登録されています。城付属聖堂は、16世紀に贖宥状を批判する「95か条の論題」が発表された地ではありますが、現存する建物は19世紀に再建されたもの。

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ヴァルトブルク城/ドイツ

ヴァルトブルク城
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テューリンゲン州のアイゼナハ郊外の山の上にあるのがヴァルトブルク城。ここは11世紀にテューリンゲン伯によって建造された、後期ロマネスク様式の城です。19世紀末に再建されましたが、邸宅や騎士館などは11世紀の建造当時の姿をよく残します。

マルティン・ルターは、ヴォルムス帝国議会にて教皇から破門されたことを告げられると、この城に亡命することとなりました。この城でルターはドイツ語で新約聖書を翻訳したことで知られ、ルターが隠れていた部屋は今も残されています。

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ヘルダー教会(聖ピーター&パウロ教会)

ヘルダー教会(聖ピーター&パウロ教会)/古典主義の都ヴァイマル
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テューリンゲン州の中央部に位置する古都ヴァイマル。街の中心部にある教会は、宮殿や学校なども併設されている施設です。現在の建物は15〜16世紀に建造されたゴシック様式の教会で、ルターが説教を行ったことで有名。

18世紀後半〜19世紀初期までゲーテの師匠的存在であったヨハン・ゴットフリート・ヘルダーがここで働いていて、彼はここで埋葬されたことから、「ヘルダー教会」と呼ばれるように。

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世界遺産マニアの結論と感想

マルティン・ルターはカトリックの腐敗から「信仰義認」「聖書中心主義」などをを通じて、キリスト教に革命をもたらしました。彼の宗教改革は、単なる運動にとどまらず、ヨーロッパ社会や政治、文化にも深い影響を与えたものでもあったのです。そして、カトリック教会の改革が進み、イエズス会の設立によってアジアや南米の布教、さらにドイツ語訳聖書の普及により、ドイツ語が統一されたということもあり、この改革こそが次の時代へと繋がっていきました。

※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。

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この記事を書いた人

世界遺産一筋20年以上!遺跡を求めて世界を縦横無尽で駆け抜ける、生粋の世界遺産マニアです。そんな「世界遺産マニア」が運営するこちらのサイトは1200以上もある遺産の徹底紹介からおもしろネタまで語り尽くすサイト。世界遺産検定マイスター認定済。

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