メアリー・ステュアート(1542〜1587年)は、スコットランドの女王であり、後のイングランド国王ジェームズ1世の母。彼女は廃位になった後、スコットランドを追われ、最終的に処刑されるという波乱万丈の人生を送った人物。メアリー・ステュアートとはどういった人物だったのでしょうか?
今回はメアリー・ステュアートがどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、メアリー・ステュアートについて具体的に理解できること間違いなし!
メアリー・ステュアート(スコットランド女王メアリー1世)とはどんな人物?
スコットランドの女王からフランス王妃に

1542年にスコットランド王ジェームズ5世とフランス貴族出身のメアリー・オブ・ギーズの娘として誕生。すぐに父王が病死したため、生後6日でスコットランド女王メアリー1世として即位しました。イングランドの王太子と結婚させられそうになり、スコットランド貴族はこれを拒否したため、フランスと同盟。1548年にメアリーはフランスへ渡ります。
1558年にフランス王太子フランソワ(後のフランソワ2世)と結婚し、フランス王妃となるも、1560年にフランソワ2世が病死し、メアリーは18歳で未亡人となってしまいます。
スコットランドの統治と処刑



帰国後、1565年にヘンリー・ステュアート(ダーンリー卿)と結婚。翌年に息子ジェームズ(後のイングランド王ジェームズ1世)を出産するものの、ダーンリーは傲慢で、メアリーとの関係が悪化します。1567年にダーンリーが殺害されると、彼女の不倫相手とされるボスウェル伯と正式に結婚。しかし、ボスウェル伯が暗殺に関与したと疑われ、多くの貴族がメアリーに反発し、反乱が起こります。
1567年にメアリーは廃位され、1歳の息子ジェームズ6世が王となります。1568年にメアリーはイングランドへ亡命。しかし、メアリーはカトリックであったために、当時の女王だった、プロテスタントのエリザベス1世の排除を狙う陰謀に巻き込まれてしまいます。1587年にエリザベス1世の命令で、メアリーは処刑。
メアリー・ステュアート(スコットランド女王メアリー1世)にまつわる世界遺産はこちら!
ホリールード宮殿/イギリス



エディンバラの中心部・ロイヤルマイルの東端にある英国王室が所有する宮殿。15世紀になり、現在の宮殿の北側にゲストハウスが建造されると、やがてジェームズ4世(1473〜1513年)が王宮として宮殿を建設し、メアリーもここで暮らしていました。
1566年にダーンリーとその仲間が、メアリーの側近であったダヴィッド・リッチオを目の前で殺害したことでも有名。
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エディンバラ城/イギリス



エディンバラの旧市街でもキャッスル・ロックと呼ばれる小高い岩山に建つ城。現在見られる建物で最も古い部分は12世紀のもので、ほとんどの建造物は16世紀以降に再建されました。現在は軍事博物館として使用されています。
メアリーが息子であるジェームズ(後のジェームズ6世/ジェームズ1世)を1566年に出産したのはここ。
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ウェストミンスター寺院(アビー)/イギリス



イギリスの首都ロンドン中心部の西側、テムズ川沿いにあるウェストミンスター地区。ここには、11世紀にエドワード懺悔王が王宮と宮殿を設置して以来、イギリスの政治と宗教の中心となった場所です。
イギリスとフランスのゴシック様式が混じり合うウェストミンスター寺院では、ほとんどの王がここで戴冠式を行っています。皮肉にもメアリー・ステュアートもこの寺院で埋葬されていて、その棺は現在も存在しています。
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世界遺産マニアの結論と感想
メアリー・ステュワートは、カトリックとプロテスタントの対立、スコットランドとイングランドの対立など、16世紀のヨーロッパ社会の犠牲者でもある悲劇の女王でした。それもあり、今でもスコットランドの人々に愛されていて、「クイーン・オブ・スコッツ」と呼ばれています。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。