テオドシウス1世(347〜395年)は、東西に分裂した帝国を一人の皇帝として治めた最後の人物。そして、392年に異教を禁止し、キリスト教を国教としました。そんなテオドシウス1世とはどういった人物だったのでしょうか?
今回はテオドシウス1世がどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、について具体的に理解できること間違いなし!
テオドシウス1世とはどんな人物?

テオドシウス1世は、ローマ帝国(紀元前27年〜1453年)の皇帝であり、ヒスパニア・タラコネンシス属州のカウカ(現在のスペインにあるカスティーリャ・イ・レオン州セゴビア県コカ)に生まれました。将校であった大テオドシウスの息子として生まれ、彼は軍人としての経験を積みましたが、父の失脚後、一時引退を余儀なくされました。しかし、皇帝ウァレンスがハドリアノポリスの戦い(378年)で西ゴート族に敗死したことで、379年に東ローマ帝国の新しい皇帝として迎えられました。
彼は熱心なキリスト教徒であり、後の主流となる三位一体派を支持し、太陽神ミトラスを信仰するミトラ教などが当時は流行していたために、392年にキリスト教を東ローマ帝国の国教に定め、西ローマ帝国も国教化しました。当時の帝国は東西で分裂が起きており、394年に西ローマ帝国の皇帝エウゲニウスを破り、4ヶ月間のみ、東西を統一するも、彼は395年に死去し、息子のアルカディウスとホノリウスで領土分割してからは東西が再び統一されることはなかったために、395年が「ローマ帝国が分裂」した年だとされています。
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サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂/イタリア



ローマの中心部の南側にある大聖堂。サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂とは「城壁外の聖パウロ大聖堂」という意味で、ローマの五大バジリカの一つ。ここはキリスト教などを皇帝として初めて認めた皇帝コンスタンティヌス1世によって、聖パウロの墓を祀る聖堂として建造。
4世紀にテオドシウス1世によって大規模な聖堂となり、5世紀には現在のバチカンにあるサン・ピエトロ大聖堂よりも規模が大きかったとされます。
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ヒッポドローム(トトメス3世のオベリスク)/イスタンブール



イスタンブールの旧市街の中心とも呼べるスルタンアフメト広場には、古代の競馬場(ヒッポドローム)が存在し、遺構は地下に埋まっています。
遺構は地下に埋もれていますが、当時置かれていた記念碑は今でもいくつか見られます。4世紀にエジプトのルクソールにあるカルナック神殿から運んできた「トトメス3世のオベリスク」はテオドシウス1世によるもので、土台には彼の姿も刻まれているのが特徴。
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世界遺産マニアの結論と感想
ローマ帝国の単独皇帝としては最後となってしまったテオドシウスは、キリスト教を帝国の国教とし、後のヨーロッパ世界の基盤を築きました。東西に統一したローマ帝国を一時的に回復したものの、結果としては異教の弾圧が進み、後にローマ帝国を悩ますゴート族の進出も許してしまうなど、結果的には中世ヨーロッパへの転換期ともなってしまうのです。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。