ウィリアム1世(1027〜1087年)は、ノルマンディー公であり、1066年にイングランドを征服して王となった人物で「ウィリアム征服王」と称されています。彼の開いたノルマン朝は現在の英国王室のルーツとなっているという点で、イギリスの歴史において非常に重要な人物。ウィリアム1世とはどういった人物だったのでしょうか?
今回はウィリアム1世がどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、ウィリアム1世について具体的に理解できること間違いなし!
ウィリアム1世(征服王)とはどんな人物?
ノルマン・コンクエスト

「ノルマン」とは、ノルマン人のことで、彼の祖先は北欧から南部へと移住してきた民族でもありました。ウィリアム(フランス語でギヨーム)は1028年にフランス北西部を治めるノルマンディー公ロベール1世とその愛人の子として生まれるも、幼少期に父を亡くし、ノルマンディー公となります。当時のイングランドでは、エドワード懺悔王が統治していたものの、世継がおらず、彼は1066年に死去。
ウィリアムはエドワード王と血縁関係があり、彼は「エドワードから王位を約束された」と主張。 しかし、イングランドの貴族たちはサクソン人の貴族ハロルド・ゴドウィンソン(ハロルド2世) を王に選んだために、ウィリアムは大勢の騎兵を率いてイングランド南部に上陸。1066年にヘイスティングスにてハロルド2世の軍と激突し、これを撃破しました(ヘイスティングスの戦い)。その後、ロンドンに入城し、ウェストミンスター寺院でイングランド王ウィリアム1世として即位。
ノルマン朝の始まりと統治



まず、ウィリアムはイングランドの土地を部下のノルマン人貴族に分配し、本格的な封建制度を開始。1085年に「ドゥームズデイ・ブック」という土地台帳を作成し、これは世界初の土地台帳となりました。
彼が築いたロンドン塔はあまりにも有名ですが、それ以外にも各地に城を築いたことで支配を強化しました。しかし、1087年に彼はフランス国内で落馬が原因で死亡。その後、ノルマンディー公国は長男ロベール2世、イングランド王位は次男ウィリアム2世(赤顔王)が継承し、ウィリアム1世の子孫は現在のイギリス国王チャールズ3世まで続いていてます。
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ウェストミンスター寺院(アビー)/イギリス



イギリスの首都ロンドン中心部の西側、テムズ川沿いにあるウェストミンスター地区。ここには、11世紀にエドワード懺悔王が王宮と宮殿を設置して以来、イギリスの政治と宗教の中心となった場所です。
イギリスとフランスのゴシック様式が混じり合うウェストミンスター寺院は、11世紀にエドワード懺悔王が建造したもの。ウィリアム1世が1066年にここで戴冠式を行ってから、ほとんどの王がここで戴冠式を行っています。英国王室の結婚式もここで行われることも。
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ロンドン塔/イギリス



ロンドンのイーストエンドに位置するロンドン塔は、ウィリアム1世によって、ロンドンの玄関であると同時に首都を防衛する要塞として建造されたもの。
中心にあるホワイトタワーは、11〜16世紀にかけて要塞宮殿として、多くの王の居城として利用されていました。英国の歴史とともに発展してきた要塞宮殿でもあります。
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ダラム城



ダラムは、イングランド北東部に位置し、スコットランドとの国境近くにある街。丘の上にあるダラム城は11世紀にウィリアム1世がスコットランドとの最前線の基地として建造したもの。
ダラムに大聖堂が造られると、ダラム司教は政治的な指導者の役割も兼任して、城はダラム司教の邸宅となりました。14世紀初頭に作られた大広間は、かつて英国一の広さを誇り、今でも長さ30m、高さは14mもある大広間になっています。
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世界遺産マニアの結論と感想
ウィリアム1世は、フランスの公爵であったものの、彼がイングランドを征服することで、当時のイングランドを支配していたアングロ・サクソン系の貴族がノルマン系へと変化し、その影響で英語が大きく変化して発展していったのです。本格的な封建制度が導入され、政治的には安定するも、後のイングランドはフランスのノルマンディー公国との繋がりが保たれることで、百年戦争まで続く長期に渡る対決に繋がってしまいました。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。