チンギス・ハンとフビライ・ハンは、いずれもモンゴル帝国の皇帝としてその名を歴史に刻んだ人物です。どちらも「ハン」の称号を持ちますが、その役割や評価には大きな違いがあります。血縁関係であるにもかかわらず、意外とその違いは知られていません。
今回はチンギス・ハンとフビライ・ハンの関係を世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、その関係について具体的に理解できること間違いなし!
チンギス・ハンとはどんな人物?

チンギス・ハン(本名:テムジン、在位:1206〜1227年)は1162年頃(異説あり)にモンゴル高原で生まれました。小さな部族の出身でありながら、軍事的才能とカリスマ性を発揮し、周辺の部族を次々と統一していきました。
1206年についにモンゴル高原全域を制圧し、「チンギス・ハン」と名乗ってモンゴル帝国を建国。その後、中央アジアや東ヨーロッパ、中国北部へと進軍を続け、征服地に徹底した統治体制を敷くことで広大な帝国の礎を築きました。1227年に遠征中に病死しましたが、その死後も帝国は拡大を続けたため、彼の名声は現在に至るまで語り継がれています。
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フビライ(クビライ)・ハンはどんな人物?



フビライ・ハン(在位:1206〜1227年)は1215年にチンギス・ハンの孫として誕生しました。彼は幼い頃から学問と政治に長けた人物で、チンギス・ハンの死後、モンゴル帝国はその子孫たちによって分割統治されていきます。1260年にフビライは帝国の「ハン」として即位しましたが、弟のアリクブケとの内戦に勝利することでその座を確実なものとしました。
1271年には中国に「元」という国号を建て、1279年には南宋を滅ぼして中国全土を支配下に置きました。しかし、フビライの時代になると、モンゴル帝国全体は分裂傾向にあり、彼の支配はほぼ中国とその周辺地域に限られるようになります。
また、1274年と1281年に行われた日本への遠征(元寇)では、いずれも失敗に終わっています。1294年に亡くなった後、元は急速に弱体化し、やがて明に滅ぼされることになります。
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チンギス・ハンとフビライ(クビライ)・ハンの違いはどこにある?



チンギス・ハンはモンゴル帝国の創設者として、帝国の軍事・政治基盤を築いた人物です。まさに「初代皇帝」として、その勢いは中央アジアからヨーロッパの一部にまで及びました。
一方、フビライはその基盤をもとに中国を本拠とする国家「元朝」を築いた皇帝です。彼は征服よりも行政と文化の統治に力を入れたため、戦闘の英雄というよりも「統治者」としての色が濃い人物です。ただし、彼の治世にはモンゴル帝国の分裂が進み、緩やかな連合のような存在となっていたため、統一的な支配は困難になっていきました。
世界遺産マニアの結論と感想
チンギス・ハンはモンゴル帝国を一代で築き上げた偉大な人物であり、その軍事的才能とカリスマ性によって世界史を大きく動かしました。対してフビライ・ハンは…帝国の5代目のハンとして中国を中心に「元」を築いたものの、あまりにも拡大した帝国の維持には苦労し、最終的には衰退の道をたどることとなります。
時代とともに、モンゴル帝国はチンギス・ハンの時代のような拡大期から、フビライ・ハンのような維持の時期へと移り変わっていきました。当然ながら、同じ「ハン」であった二人でも、その役割と評価には大きな違いがあったのです。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。