ウズベキスタンの世界遺産「サマルカンド‐文化交差路」とは?サマルカンド・ブルーの都を世界遺産マニアが解説

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登録区分文化遺産
登録基準(1),(2),(4)
登録年2001年

ウズベキスタンの古都であるサマルカンドは、シルクロードで栄えた都市。現在の北東部のアフラシヤブの丘に築かれた都市が破壊されると、広大な帝国を築いた軍事指導者ティムール(1336〜1405年)によって14〜15世紀に街は再建。ティムールが青色を好んだことから「サマルカンド・ブルー」と呼ばれる青いタイルを使った美しい建造物が今でも多く見られます。

ここでは、サマルカンド‐文化交差路がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、サマルカンドについて詳しくなること間違いなし!

目次

サマルカンド‐文化交差路とは?世界史においても重要な都市

サマルカンド‐文化交差路
画像素材:shutterstock

ウズベキスタンの中央部、ゼラフシャン川の渓谷にあるオアシス都市であるサマルカンドは、ウズベキスタンでも最古の歴史を持つ居住地であり、シルクロードで栄えた、文明の交差地であった場所。最初のサマルカンドは、紀元前7世紀に現在の北東部にあるアラシヤブの丘に築かれた都市でしたが、13世紀に街はチンギス・ハンに徹底的に破壊されてしまいます。現在のアラシヤブの丘は遺跡として、城塞や住宅、宮殿、モスクなどの跡だけが残存。

その後、中央アジア一帯を支配したティムール朝(1370〜1507年)の創始者であるティムールが、14〜15世紀にアラシヤブの丘の南、現在の旧市街に新たに都を建造。ティムールは帝国中から職人や学者を集め、多くの建築物を築きました。街の中心にあるレギスタン広場には、マドラサ(神学校)やモスクなどが造られ、サマルカンドはイスラム建築と芸術が溢れる都市へ変貌。しかし、16世紀になると、ティムール朝は崩壊。大陸間の移動の中心が海運に移っていくと、シルクロードそのものが重視されなくなり、サマルカンドも徐々に衰退していきました。

サマルカンド・ブルーとは何を示す?

レギスタン広場/サマルカンド‐文化交差路
画像素材:shutterstock

ティムールは青色を好んだため、建造物には「サマルカンド・ブルー」と呼ばれる青色のタイルを使った建築物が多く見られます。そして、サマルカンドは大陸性気候にあり、降水も少ない一方、青空の日が多く、青色の建造物が続くことから「青の都」と呼ばれることもあり、何かと「青」にゆかりがあるのが特徴。

登録されている主な構成資産

レギスタン広場

レギスタンとは「砂地」という意味で、もともとバザールなどが開かれた公共広場でした。実はティムールが暮らしていた時代はバザールだけがあって、現在の姿になったのは17世紀から。3つの神学校が広場を囲むように建つのが特徴。

ウルグ・ベク・マドラサ

ウルグ・ベク・マドラサ/サマルカンド‐文化交差路
画像素材:shutterstock

ティムールの孫であり、ティムール朝の第4代ウルグ・ベクによって1417年に建造されたマドラサ。彼自身が天文学者であったため、入口のタイルは星型がモチーフにしています。内部は宿舎であり、教室であるというのが特徴。

シェル・ドル・マドラサ

シェル・ドル・マドラサ/サマルカンド‐文化交差路
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1636年に完成した神学校。「シェル・ドル」とはライオンが描かれたという意味で、入口のアーチにはライオンが描かれてることで有名。イスラム建築において動物などが描かれるのは非常に珍しいことです。

ティリャー・コリー・モスク・マドラサ

ティリャー・コリー・モスク・マドラサ/サマルカンド‐文化交差路
画像素材:shutterstock

一番北側にあるマドラサで、1660年に築かれたもの。他の2つと比べると特殊な建築で、内部にはモスクがあり、サマルカンドの主要な礼拝所となっていた場所。礼拝所の天井は金箔を3kgも使った壮麗なもの。

グーリ・アミール廟

グーリ・アミール廟/サマルカンド‐文化交差路
画像素材:shutterstock

1404年に完成したティムールの霊廟。実際はティムールが存命中に、彼の孫であるムハンマド・スルタンのために建造したものですが、1405年に遠征の途中で急死したため、ここに埋められました。廟の内部は修復され、金箔を3kgを使用し、当時の雰囲気を取り戻しています。

ビービー・ハーヌム・モスク

ビービー・ハーヌム・モスク/サマルカンド‐文化交差路
画像素材:shutterstock

1404年にティムールによって建造された、中央アジア最大級のモスク。四隅にミナレットが作られ、礼拝所が2つも置かれた豪華なモスクでした。しかし、ティムールの死後に廃墟となり、19世紀にはほぼ崩壊。1974年から再建が始まり、現在見られるのは再建されたものがほとんど。

ウルグ・ベク天文台

ウルグ・ベク天文台/サマルカンド‐文化交差路
画像素材:shutterstock

ティムール朝の第4代ウルグ・ベクによって1420年代に街の郊外に建造されたもの。地下に埋まっている天文台そのものが、六分儀という天体観測用の装置になっていて、星の軌跡を記録していました。1908年に発掘され、今では当時のウルグ・ベグが使用していた時代の姿を眺めることができます。

アフラシヤブの丘

アフラシヤブの丘/サマルカンド‐文化交差路
画像素材:shutterstock

紀元前7世紀に築かれたソグド人によって築かれた都市遺跡。かつてはシルクロードの交易で栄え、玄奘三蔵も訪れ、街の美しさを称賛しました。しかし、13世紀にチンギス・ハンによって破壊され、現在は遺構のみ残存。

シャーヒ・ズィンダ廟群

シャーヒ・ズィンダ廟群/サマルカンド‐文化交差路
画像素材:shutterstock

アフラシヤブの丘の南にある霊廟の集合体。ティムールの家族やティムールが活躍した時代の将軍など、ティムールゆかりの人々が埋葬されていて、巡礼地ともなっています。他にもティムール以前の11世紀に造られた建造物も残存。

サマルカンド‐文化交差路はどんな理由で世界遺産に登録されているの?

サマルカンド‐文化交差路
画像素材:shutterstock

サマルカンドが評価されたのが、以下の点。

登録基準(i)
文化の交差路であったサマルカンドの建築物と町並みは、イスラム建築の傑作であるという点。

登録基準(ii)
サマルカンドの建造物は、地中海からインドまで各地のイスラム建築に影響を与えていたということ。

登録基準(iv)
サマルカンドの旧市街に見られる建築物や都市構造などは、13世紀から現在まで、中央アジアの文化が発展するまでの重要な段階を示しているという点。

世界遺産マニアの結論と感想

サマルカンドの旧市街に残る建造物は中央アジアの文化の発展が見られるだけではなく、13世紀から現在まで中央アジアだけでなく、インドや地中海あたりまでのイスラム建築にまで影響を与えているという点で評価されています。

ちなみに、ウルグ・ベグは15世紀の時点で、恒星年(一年の長さ)が365日6時間10分であるということを発見していたのです。実際は約2秒ずれていましたが、望遠鏡を使わずに測定したことに驚きですね。サマルカンドの人々の教養の高さがよく分かるエピソードです。

※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。

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この記事を書いた人

世界遺産一筋20年以上!遺跡を求めて世界を縦横無尽で駆け抜ける、生粋の世界遺産マニアです。そんな「世界遺産マニア」が運営するこちらのサイトは1100以上もある遺産の徹底紹介からおもしろネタまで語り尽くすサイト。世界遺産検定一級取得済。

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