ガイウス・ユリウス・カエサル(ジュリウス・シーザー、紀元前100年〜紀元前44年)は、古代ローマの政治家・軍人・作家であり、その卓越したリーダーシップで共和制ローマを帝政ローマへの道に導くことになった人物でもあります。そんなカエサルとはどういった人物だったのでしょうか?
今回はカエサルがどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、カエサルについて具体的に理解できること間違いなし!
カエサルとはどんな人物?
カエサルの本名は?

古代ローマ人は「プラエノーメン(個人名)、ノーメン(氏族名)、コグノーメン(家族名)」という3つの名前を持っていました。よって、カエサルが個人名だと思われていますが、彼の本名は「ガイウス(個人名)・ユリウス(氏族名)・カエサル(家族名)」であり、カエサルはあくまでも家族名。
ユリウス氏族は王政ローマ時代から残る名門で、カエサルという家族名は、「長い髪」や「戦争で象を殺した」という意味を持つとされています。よって、彼の個人名はあくまでも「ガイウス」であり、父親も同名でした。
政界進出とガリア戦争



カエサルは貴族階級である「パトリキ」として生まれましたが、彼の家系はその頃それほど強い影響力を持っていませんでした。彼は政治家としてキャリアを求めて何度も失敗するものの、紀元前60年にローマの長である執政官へと当選し、軍事と政治の両方で大きな成功を収めました。
カエサルの最大の功績の1つは、ガリア戦争(紀元前58年〜紀元前51年)です。彼はガリア(現在のフランスとその周辺地域)の征服を指揮し、その戦争の詳細を『ガリア戦記』という著作に記録しました。この戦争で彼は軍事の天才としての評判を確立し、共和制ローマの領土を拡大しました。
ローマ内戦を経て「独裁官」に



ガリア戦争で勝利したカエサルは権力が増していったために、元老院は彼を危険視し、軍隊を解散し、執政官への立候補もできないように指示。それに対し、ガリアにいた彼はイタリア本土との境界であったルビコン川を渡り(紀元前49年)、その時に「賽は投げられた」と言ったとされ、内戦を開始し、最終的に彼はポンペイウスを破り、「終身独裁官」として絶対的な権力を握りました。
カエサルはブルータスによって暗殺された?その死因は?



しかし、彼の独裁的な権力に反発した元老院議員たちが共謀して暗殺を計画するようになります。そして、紀元前44年3月15日、カエサルは元老院の会議中に腹心であり、息子のように可愛がったブルータス(マルクス・ユニウス・ブルトゥス)ら数十人の議員によって、暗殺されました。それもあり、ローマ時代の歴史家には「息子よ、お前もか?」と最後の言葉を放ったとされますが、16世紀になり、ウィリアム・シェイクスピアが戯曲を執筆する際に「ブルータス、お前もか?」と変更され、こちらのほうが有名となりました。
歴史家プルタルコスによると、遺体は「23の刺し傷のうち、2つ目の刺し傷が致命傷」という悲惨な状況だったそう。この暗殺は共和政ローマの崩壊を加速させ、その後の帝国の成立に至る重要な転換点となりました。
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フォロ・ロマーノ(フォルム・ロマヌム)/イタリア



現在のローマ市内にある遺跡の集合体で、フォロ・ロマーノは「ローマ市民の広場」という意味。広場は東西約300m、南北約100mの広さを誇り、紀元前6世紀から3世紀までローマ帝国の政治と経済の中心地でもあり、政治の演説が行われたり、集会、凱旋のパレードなどが行われた場でした。
現在の姿になったのは、ユリウス・カエサル(紀元前100年〜紀元前44年)によって再設計が行われてから。その時代になるとフォロ・ロマーノは手狭になったため、カエサルは北部に新たにフォロ・ジュリアーノを設計。
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フォリ・インペリアーリ/イタリア



「皇帝たちの広場」という意味で、フォロ・ロマーノの北側に位置する地区。フォロ・ロマーノが狭くなってきたため、カエサルが計画して建設を始めたもの。そして、多くの皇帝たちが神殿や記念碑を建造しました。
フォロ・ジュリアーノには、ユリウス氏族の祖神であるウェヌスを奉ったウェヌス・ゲネトリクス神殿が建立されていたもものの、カエサル死後に完成したもの。
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世界遺産マニアの結論と感想
カエサルは野心が溢れる人物だったものの、リーダーシップを大いに発揮し、ユリウス暦を取り入れたりと改革者としての側面もあったものの、専制的な権力者としての側面が強く、やがてローマに「皇帝」が誕生するきっかけとなりました。
そして、カエサルの名前は、後世にわたって大きな影響を与えます。「カエサル」という名前は、後にローマ帝国の皇帝を意味する称号(ドイツ語のカイザーやロシア語のツァーリの語源)として使われるようになりました。また、『ガリア戦記』を含めて、彼の著作は文学的な作品としても優れていて現在も愛されています。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。