カール5世(1500〜1558年)は、スペイン王としては「カルロス1世」であり、神聖ローマ皇帝としては「カール5世」として即位。彼はハプスブルク家とスペイン王家のさまざまな領土を統治し、16世紀のヨーロッパで最も広大な領土を支配した君主でもありました。そんなカール5世とはどういった人物だったのでしょうか?
今回はカール5世がどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、カール5世について具体的に理解できること間違いなし!
カール5世(カルロス1世)とはどんな人物?

1500年にブルゴーニュ公国・ハプスブルク家のフィリップ美公と、スペイン出身のカスティーリャ女王フアナとの間に生まれました。彼は神聖ローマ皇帝であったマクシミリアン1世、さらにスペインを統一したフェルナンド2世とイサベル1世の孫でもあり、当時のヨーロッパの大国を引き継ぐ立場にありました。
それもあり、1516年に祖父フェルナンド2世の死後、スペイン王「カルロス1世」へと即位し、1519年に祖父マクシミリアン1世が死去し、神聖ローマ皇帝の選挙によって「カール5世」として即位すると、スペイン、オーストリア、ネーデルラント(現在のオランダやベルギーなど)、イタリア北部と南部、アメリカ大陸の植民地など、ヨーロッパやアメリカ各地の領土を一人で継承することになります。しかし、あまりにも国土が広く、彼の生涯は戦争の繰り返しでした。



イタリア戦争(1494〜1559年)において、フランス王フランソワ1世とイタリア支配を巡って対立。1525年のパヴィアの戦いでフランソワ1世を捕虜にしました。一方、ドイツでは、1517年にマルティン・ルターが「95カ条の論題」を発表し、宗教改革が始まり、カール5世は熱心なカトリック教徒だったため、1521年にルターを異端として追放すると、プロテスタントたちはシュマルカルデン同盟を組み、戦争が長期化。それもあり、彼はルター派を容認するようになり、1555年にアウクスブルクの和議が結ばれました。
東方では、東地中海を制したオスマン帝国によって1529年に第一次ウィーン包囲を行い、スレイマン1世がウィーンを攻めるものの、これは失敗しています。そして、1538年にプレヴェザの海戦でローマ教皇とヴェネツィア共和国と共に戦いますが、これは敗退。



こういった経緯もあり、カール5世は晩年になると、長年の戦争と宗教対立に疲れ果ててしまったため、退位を決意。1556年にスペイン王位は息子のフェリペ2世、神聖ローマ皇帝の地位は弟のフェルディナント1世に譲ります。そして、ハプスブルク家は「スペイン・ハプスブルク家」と「オーストリア・ハプスブルク家」に分裂。
その2年後、スペインのユステ修道院で隠遁生活を送っていたカール5世は、58歳で亡くなりました。彼は当初は修道院で埋葬されたものの、後にフェリペ2世によって、世界遺産にも登録されているエル・エスコリアル修道院の霊廟へ移葬されています。
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アルハンブラ宮殿/スペイン



グラナダはスペイン南部のアンダルシア州グラナダ県の県都で、かつてはナスル朝(1238〜1492年)の首都であった場所。アルハンブラ宮殿は、グラナダの南東に位置する丘の上に建造された城塞兼宮殿です。
敷地内にはカール5世の宮殿があり、ここは1526年から設計されると1568年まで建造が続いたものの、未完成のまま終わってしまいました。現在もルネサンス様式の円形の中庭などが見られます。
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セゴビア大聖堂(司教座)/スペイン



セゴビアは、スペイン中央部のカスティーリャ・イ・レオン州にある要塞都市で、首都マドリードから北東へ約90kmの距離。エレスマ川とクラモレス川の間に位置していて、交通の要所でもありました。
大聖堂は16世紀に当時の皇帝カルロス1世によってゴシック様式で建造が始まり、200年以上の歳月をかけて18世紀に完成した大聖堂。17世紀に建造された鐘楼は88mで、かつてはスペインで最も高い塔であった時期も。
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メスキータ(コルドバ)/スペイン



「メスキータ」とは一般的にはモスクを示しますが、コルドバにおいては街の中心部にある大モスクを指します。ここはもともとは8世紀に後ウマイヤ朝の開祖、アブド・アッラフマーン1世(731〜788年)によって建造。
16世紀になり、カール5世によってゴシック様式とルネサンス様式を合わせた教会堂が作られると、イスラム教建築とキリスト教建築が混在する不思議な建築物になりました。
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マドリードのエル・エスコリアルの修道院と王室用地/スペイン



首都マドリッドの郊外に位置するエル・エスコリアルの修道院は、グアダラーマ山脈の麓に位置する宮殿、神学校、図書館などがある複合施設。スペイン最盛期の王であったフェリペ2世が、1563〜1584年にかけて王宮と修道院を兼ねて建造しました。
ここは王宮でもあり、修道院でもあったことから広大な敷地を誇り、庭園、神学校、図書館、交易所などを含めて壮大な建造物でした。そして、スペイン王家の埋葬場所でもあり、歴代の国王の霊廟もあります。
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世界遺産マニアの結論と感想
カール5世は、当時のヨーロッパでも最大の領土を持つ国家の王であり、新大陸の征服によってスペインが世界的な強国に至るまでの基盤を形成しました。一方、彼はルター派を最終的には容認したものの、ヨーロッパでは宗教対立が定着し、その対立は後世へと続き、やがて三十年戦争へと繋がります。彼の代で、ハプスブルク家はスペインとオーストリアで分かれますが、どちらも大いに繁栄したので、そのルーツとして偉大な王だったことは間違いないでしょう。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。