登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (1),(5),(6) |
登録年 | 1979年 |
エジプトの首都カイロは、7世紀にイスラム勢力がこの地にフスタートという軍事基地を築いたことが起源。そして、10世紀にフスタートの北部に新たな都市が建設され、その名を「ミスル・アル=カーヒラ(勝利者の軍事都市)」と名付けられたのですが、現在のカイロの呼び方はこのカーヒラから由来します。14世紀には世界最大規模のイスラム都市となり、「1000のミナレットが立つ街」と称されたほど。
ここではカイロ歴史地区がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、カイロ歴史地区について詳しくなること間違いなし!
カイロ歴史地区とは?
カイロは、ナイル川によって形成される肥沃なデルタ地帯のほぼ南端に位置する都市で、アフリカでも最大級の都市です。歴史地区はいわばカイロの旧市街といった存在で、ここは7世紀にイスラム軍の将軍であったアムル・イブン・アルアースがアフリカ大陸を攻略するために、この地に拠点を建造。そこはフスタートと呼ばれる、現在のカイロ南部に築かれた軍事基地にあたり、ここにはアフリカ大陸初のモスクが造られ、現在もモスクが存在しています。
10世紀に現在のチュニジアで成立したファーティマ朝(969〜1171年)によって征服されると、フスタートの北側に「ミスル・アル=カーヒラ(勝利者の軍事都市)」を建設し、ここを新都としました。これがカイロの原型であり、イスラム世界の政治、経済、文化の中心地へとなっていくのです。今でも残るアル=アズハル大学はこの頃に設立され、ここは学問と芸術の中心都市でもありました。
12世紀にアイユーブ朝(1169〜1250年)が成立すると、シタデルと呼ばれる丘の上に築かれた王宮が建造。ここは19世紀までカイロの政治の中心でした。13世紀からマムルーク朝(1250〜1517年)の支配下になると、カイロは交易によって栄え、世界でも最大のイスラム都市に。市内にはモスクやミナレットが多く建造され、14世紀には「1000のミナレットが立つ街」と称さるほどになったのです。
16世紀になるとオスマン朝の支配下に入り、19世紀の混乱期にアルバニア系の軍人だったムハンマド・アリー(1769〜1849年)が、ムハンマド・アリー朝(1805〜1953年)を築くと、現在の新市街を建造。やがて現在の歴史地区が旧市街となり、旧市街全体が「イスラム地区」と呼ばれるようになったのです。王宮も新市街に移ったのですが、彼はイスラム地区のシタデル(城塞)にモスクを築き、死後はここに埋葬されました。
主な構成資産
ハーン・ハリーリ/イスラム地区
イスラム地区の中でも中央部にある広大な屋内市場。ここは12世紀にアイユーブ朝の君主サラディンによって、それまでここに存在していた宮殿などを解体し、交易の場として開放。そして、14世紀のマムルーク朝時代に隊商宿が多く設立されたため、「ハーン・ハリーリ」と呼ばれるようになりました。
当時の名残はいくつも見られますが、現在はお土産屋の集合体として有名で、18世紀から営業しているコーヒーハウスなどもある、一大観光エリアとなっています。
ズウェーラ門/イスラム地区
現在はイスラム地区内にありますが、ここは11〜12世紀のファーティマ朝時代に建造された城壁の南門であった場所。2つの高いミナレットが築かれているのが特徴で、ここは敵軍の視察に使用されていました。処刑が行われる場所でもあり、門には切断された犯罪者の頭部がかけられたことも。
スルタン・ハサン・モスク/イスラム地区
シタデルの手前にある巨大な面積を持つモスク。14世紀のマムルーク朝時代のスルタンであったナースィル・ハサンによって建造され、カイロでも最大級のミナレットを持つことで知られます。中庭に面した四方のイーワーン(天井がアーチ側になっている空間)があり、ミフラーブ(メッカの方角を示した窪み)の装飾も豪華。
しかし、完成直前にナースィル・ハサンが暗殺され、彼の霊廟もここに置かれています。
シダテル/イスラム地区
カイロの南東部にあるムカッタムの丘の上に築かれた城塞。ここは12世紀にアイユーブ朝の始祖サラディンに築かれ、その後、19世紀まで700年近く宮殿が置かれていました。19世紀前半にムハンマド・アリー朝のムハンマド・アリーによって古い建物が壊され、現在見られるものはこの時代のもの。敷地内には4つのモスクが点在し、かつての宮殿は博物館として公開。
ムハンマド・アリー・モスク/イスラム地区
1830年から1848年にかけて、エジプトのムハンマド・アリー朝の始祖であるムハンマド・アリーによって建造されたモスク。ここは1816年に亡くなった彼の息子であるトゥルン・パシャを偲ぶために建造されたもの。その後、ムハンマド・アリーの死後、ここに埋葬されました。
イスランブールの建築家によって築かれたため、オスマン帝国時代の建築様式が見られます。
死者の町/イスラム地区
イスラム地区でも南東に位置するエリア。死者とは墓地のことで、マムルーク朝時代に建造されたスルタンなどの墓地が残っています。「死者の町」とはいうものの、墓には墓守が住み着いていたりと、一般的な町のような雰囲気。しかし、現在は一部がスラムになってしまったりと…なにかと問題がある地区でもあります。
イブン・トゥールーン・モスク/イスラム地区
イスラム地区でも南側に位置するモスク。トゥールーン朝の創始者であるアフマド・イブン・トゥールーンによって879年に建造されたもの。ここは現存するトゥールーン朝の中でも数少ない建造物で、レンガを使用していて、当時としては革新的な建造物。
中庭を巡るように回廊が建造。北側にはミナレットがあり、ぐるっと廻るように外階段が設けられました。ミナレットの建造年に関しては諸説あって、今でもわかっていません。
アムル・イブン・アル=アース・モスク/オールド・カイロ
オールド・カイロでも北側に位置する、642年に建造されたアフリカ大陸最古のモスク。ここは将軍アムル・イブン・アル=アースがエジプトを征服する際に彼が設置したテントがあった場所に設立されたとされます。初期は簡素なレイアウトで、何度か拡張工事され、現在見られる建造物は18世紀に再建されたもの。今も修復工事が続いている部分もあります。
聖ゲオルギオス教会/オールド・カイロ
オールド・カイロは、コプト地区という、エジプト中心としたキリスト教徒の一派であるコプト正教会の教会が多くあるエリア。教会は10世紀頃に建造されたとされますが、もともとは古代ローマ時代の要塞であった場所とされています。
現在の建造物は20世紀初期に再建されたもので、円形(ロタンダ)の構造となっています。入口正面のファサードには、教会の名の由来である「聖ゲオルギオス」が竜退治をするレリーフが配置。
カイロ歴史地区はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
カイロ歴史地区が評価されたのが、以下の点。
登録基準(i)
カイロのイスラム地区とオールド・カイロに残る建造物は、人類の創造的才能が見られるということ。
登録基準(v)
歴史地区は、カイロの近代的な都市部と一体となっていて、今でも人々が住む旧市街にモスク、マドラサ(神学校)、ハマムなど、かつての繁栄が見られる建築物が溶け込んでいるという点。
登録基準(vi)
世界でも最も古いイスラム都市の一つで、14世紀には「1000のミナレットが立つ街」と称されるほどに黄金時代を迎えた都市であったということ。
世界遺産マニアの結論と感想
カイロは14世紀に1000のミナレットが立つ街とされるほどに当時の最先端の建築物が並ぶ街であり、現在の旧市街にはかつての栄光を感じさせるモスクやマドラサなど、さまざまな建造物が溶け込むように点在するということで評価されています。
実はカイロの街はどんどんと東側に拡大していて、周囲が砂漠なため、新市街が郊外に拡大していき、郊外へ行けば行くほど最先端のビルが並ぶというのが特徴。これは「新首都移転計画」の一環で、現在も大統領府や議会、各省庁が移転しつつあり、名前もカイロではなく、新しい名前になる予定です。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。