登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (4) |
登録年 | 2024年 |
相川金銀山は「佐渡島の金山」の構成資産の一つ。島でも最大規模の鉱山で、16世紀から近代まで佐渡島の金山でも中心的な存在でもありました。ところで、相川金銀山はなぜ世界遺産なのでしょうか?
ここでは相川金銀山がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、相川金銀山について詳しくなること間違なし!
相川金銀山とは?
相川金銀山は島の西部に残る金山で、「史跡 佐渡金山」として残されています。16世紀末に開発が始まり、島でも最大規模の鉱山でした。もともとは反対側にあった鶴子銀山が中心でしたが、17世紀に江戸幕府になると、相川金銀山からは幕府の財源となるほどに多くの金銀が産出。ここは金山のシンボルである道遊の割戸(どうゆうのわりと)から露頭堀りが始まり、後に斜坑から堅坑などの坑道へと発展した経緯が見られるのが特徴。
しかし、江戸時代中期になると産出量が減り、一時衰退。明治時代になり、火薬や削岩機などを利用した近代的な採掘が始まると、1940年には鉱山の歴史上最高となる1500kgの金を採掘するほどに。その後、再度衰退していき、1989年に閉山。
「相川金銀山」として登録されているのは、おもに江戸時代の遺構が中心。かつての鉱山跡である「道遊の割戸」と「宗太夫坑」を含めたエリアだけでなく、江戸時代に佐渡奉行所が置かれた相川地区は「佐渡相川の鉱山及び鉱山町の文化的景観」として重要文化的景観も含まれる予定です。
道遊の割戸
もともとは標高255.9mの道遊山という山があり、ここには鉱脈が発見されたことから、1601年に山頂部から掘り進められ、やがて幅30m、深さ74mもの巨大な空洞「割戸」が形成されました。割戸は上部は江戸時代初期に掘られ、下部は明治、大正、昭和に採掘が行われました。絶壁のような採掘跡は非常に珍しいもの。
宗太夫坑
江戸時代初期に開削された坑道で、ここは佐渡金山最大の鉱脈・青盤脈の西側を掘り進めていったもの。坑道は江戸時代の採掘形式の特徴である「将棋の駒型」と呼ばれる台形のような形になっていて、途中には斜坑や煙を通す穴などが点在しています。
相川金銀山はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
相川金銀山が評価されたのは以下の点。
登録基準(iv)
佐渡島は南と北の2つの山脈に1つの沖積平野で隔てられるという地形であり、島に残る金と銀の鉱床は、熱水が地表に上昇し、地殻変動により、海底に沈んだ後、再び隆起したという構造です。そのような環境のなか、砂金の鉱床は、西三川地域で採掘され、後に火山岩の風化により鉱脈が露出し、相川・鶴子地域で地下採掘が行われました。地下と地上に残る遺構は、採鉱のための社会・労働組織が反映されているという点。
世界遺産マニアの結論と感想
相川金銀山は、江戸時代初期から昭和まで、各時代の坑道や露頭掘りなどの跡が残っていて、保存状態も良好。近世から近代までの鉱山における採掘技術の発展が見られるという点で評価されています。
ちなみに、鉱山は明治29年に三菱合資会社に払い下げられ、大正時代から三菱マテリアルによって引き継がれています。現在は閉山してしまいましたが、三菱マテリアルの子会社である「ゴールデン佐渡」によって運営されていて、現在は史跡の運営まで行い、鉱山運営から観光地化まですべて担当しているという非常に長い事業となっています(結果かもしれませんが…)。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。