登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (2), (3), (5) |
登録年 | 2007年 |
石見銀山街道は「石見銀山遺跡とその文化的景観」の構成資産の一つ。石見銀山で産出された銀を港へと運ぶために使用された街道ですが、街道はなぜ世界遺産に登録されているのでしょうか?意外と知ってそうで知らない!
ここでは石見銀山街道がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、石見銀山街道について詳しくなること間違いなし!
石見銀山街道とは?
通称「銀の道」と呼ばれ、石見銀山で産出された銀などを陸路で結ぶために作られた通路。これらは16世紀後半から利用されていて、世界遺産としては、大森から鯛の浦へ結ぶ「鞆ヶ浦道」、大森から西田集落を中継地として温泉津と沖泊を結ぶ「温泉津沖泊道」が登録されています。
鞆ヶ浦道
大森から世界遺産に登録されている集落・鞆ヶ浦(ともがうら)を結ぶ道で、総延長7.5 km。ここはさまざまな集落を通り、石切場跡などが残っていますが、盗賊が多く出没したこともあり、関所なども多くあったとされています。
温泉津沖泊道
大森から世界遺産に登録されている集落・温泉津(ゆのつ)と沖泊を結ぶ道で、総延長13.8 km。ここは途中に宿場町である西田集落もあり、街道の周囲には棚田が広がっていて「歴史の道百選」にも登録。現在は多くの道が舗装されていて、途中から温泉津と沖泊が枝分かれしています。
石見銀山街道はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
石見銀山街道が評価されたのが、以下の点。
登録基準(ii)
16世紀〜17世紀初頭の大航海時代に、石見銀山における銀の大量生産によって、日本と東アジア、ヨーロッパの国々との交易から文化的交流が生まれたという点。
登録基準(iii)
日本における金属の採掘と生産の技術革新は、採掘から精錬までの一連の労働集約型経営による運営形態の進化がもたらされました。江戸時代の日本は鎖国していたために、政治と経済が孤立していた中、ヨーロッパの産業革命によって開発された技術の導入が防がれ、やがて銀鉱山が枯渇すると休山。よってここは19世紀後半まで伝統的建築物が残り、保存状態も良好であるということ。
登録基準(iv)
石見銀山には、保存状態が良い鉱山、製錬所、輸送路、港湾施設の遺構が森の中に多く残り、銀の生産に関連した集落も含まれ、歴史的な土地利用の証拠が見られるという点。
世界遺産マニアの結論と感想
石見銀山街道は、石見銀山で精錬された銀を港街まで運ぶというルートで、これは輸送路として利用され、今でも採掘跡や石碑などが残り、当時の繁栄が見られるという点で評価されています。
ちなみに、世界遺産に登録されていない「尾道道」と「笠岡道」も中国自然歩道として整備されているので、気軽に歩けるようになっています。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。