登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (2), (3), (4), (6) |
登録年 | 2004年 |
高野参詣道は「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産の一つ。世界遺産としては5つの道が登録されていて、これらは周囲から高野山へと向かう道であり、近世までは参詣道として活躍。ところで、高野参詣道はなぜ世界遺産なのでしょうか?
ここでは高野参詣道がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、高野参詣道について詳しくなること間違いなし!
高野参詣道とは?
和歌山県の北部にある、高野山の周囲から徒歩で登拝するための参詣道(古道)。ここには7つの参詣道があり、外界(俗世)から聖地へと入るという意味でも重要なものでした。これらは11〜12世紀に京都の皇室や貴族たちが利用した参詣道であり、その後は庶民も利用する道であったものの、現代になると車道が完成したために古道として、道そのものが世界遺産に登録。
世界遺産としては、九度山町から結ぶ「町石道」、かつらぎ町から結ぶ「三谷坂」、高野町・極楽橋から結ぶ「京大坂道(きょうおおさかみち)」、橋本市の定福寺から結ぶ「黒河道(くろこみち)」、高野山に入れない女性のために高野山の周囲に設けられた7つの女人堂を結ぶ「女人道」の5つが登録されています。
町石道
町石道は、高野山北部・九度山町にある慈尊院から高野山へとつながる高野参詣道の一つ。約22kmのルートとなっていて、道沿いには町石と呼ばれる、1町(約109m)ごとに置かれた五輪卒塔婆型の石柱が置かれていたことが名前の由来。
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三谷坂
三谷坂はかつらぎ町三谷が入口となっていて、紀の川沿いにある丹生酒殿神社(にうさかどのじんじゃ)が起点となっています。高野山の手前にある、世界遺産に登録されている丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)を経由し、九度山から続く町石道(ちょういしみち)と合流するというルートであり、合計で約4.7km。
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京大坂道
京大坂道は、京都と大阪などから続く高野街道が、高野山の麓である橋本市の学文路(かむろ)で集約され、ここから高野山の不動坂口まで続く道であり、江戸時代にはこの道が参詣道の主流で、途中には宿場町が多くありました。そして、南海線の終着駅である「極楽橋」から不動坂口までは「不動坂」と呼ばれ、高低差310mという難所。
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黒河道
黒河道は、高野山の麓に位置する橋本市にある定福寺(じょうふくじ)から高野山内にある千手院谷へと続く登山道で、合計で約18kmと高野参詣道の中でも最短の距離で行けるルートでもありました。その歴史は古く、大和国(奈良県)からの参拝者がよく利用されていため「大和口」とも呼ばれていました。
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女人道
1872年まで高野山の境内は女人禁制であり、女性たちが参詣を行うためには高野山へ登る道の終着点である、高野山の入口(高野七口)に築かれた女人堂へと向かう必要がありました。それぞれが各参詣路の終着点でもあります。女人道とは、この女人堂を巡りつつ、高野三山を含めたルートであり、合計で約17km。
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高野参詣道はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
高野参詣道が評価されたのが、以下の点。
登録基準(ii)
紀伊山地に残る霊場と参詣道は、神道と仏教が融合が見られ、東アジアにおける宗教文化の交流と発展を示すということ。
登録基準(iii)
紀伊山地に点在する神社や寺院は、この地の慣習を含めて、1000年以上に渡る日本独自の宗教の発展を示すものであるという点。
登録基準(iv)
紀伊山地は、日本各地の寺社の建築様式に大きな影響を与え、それらの形成のルーツともなっているという点。
登録基準(vi)
紀伊山地の霊場と森林には、1200年に渡って神の宿る地として信仰が維持され、それらが景観に見られるということ。
世界遺産マニアの結論と感想
高野参詣道は、日本独自の宗教の発展を示すもので、古くから信仰が残り、その伝統が今でも維持されているという点で評価されています。
ちなみに、世界遺産には登録されていないですが、整備された「新高野街道」が1901年に完成し、1925年に麓に高野下駅が開業すると、1929年には極楽橋駅まで延伸され、1930年には高野山駅までケーブルカーが造られたため、20世紀になってからは…もはや多くの旅行者にとってはこちらがメインの参詣道になってしまっています。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。