登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (2),(3),(4),(6) |
登録年 | 1998年 |
東大寺は「古都奈良の文化」の構成遺産の一つ。奈良の大仏のある東大寺は街のシンボル的存在ですが、どんな理由で東大寺は世界遺産に登録されているのでしょうか?意外と知ってそうで知らない!
ここでは東大寺がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、東大寺について詳しくなること間違なし!
東大寺とは?
「奈良の大仏」があることで、あまりにも有名な寺院。もともとは8世紀前半には若草山の麓に寺院が存在したことが分かっていますが、745年に聖武天皇(701〜756年)により国家鎮護のために大仏造立が行われました。
金堂(大仏殿)

「東大寺」という寺号が使用されたのは、最も早い資料で747年であり、現在の大仏(盧舎那仏像)の開眼供養(魂入れの儀式)が行われたのが752年とされます。それに合わせて、金堂(大仏殿)が完成したのが758年。しかし、1180年と1567年には消失してしまい、現在の大仏は江戸時代に再建されたもの。1692年に開眼供養され、1709年には大仏殿も再建されました。
大仏殿は、奥行50.5mと高さ約46.8mは創建時とほぼ変わりませんが、間口は当時に比べて3分の2に縮小されています。奈良の大仏の正式名は「東大寺盧舎那仏像(とうだいじるしゃなぶつぞう)」となっていて、その高さは14.7m。
南大門

東大寺の正門にあたる南大門は、平安時代に倒壊した後、鎌倉時代の1199年に再建されたもの。大陸から伝えられた建築様式・大仏様を採用していて、天井を作らずに構造材で装飾にしているのが特徴。
門の左右には金堂力士像が置かれていて、門に向かって右側が吽形(うんぎょう)、左側が阿形(あぎょう)となっているものの、一般的な仁王像の配置とは逆になっています。これらは大仏師の運慶(うんけい)が指揮し、弟子や当時の仏師たちによって1203年に69日で作られたとされていますが、そのあたりの役割分担はまだはっきりと分かっていません。
正倉院

大仏殿の北西に位置する校倉(あぜくら)造りの正倉院は、756年に光明皇太后によって聖武天皇の遺愛の品と薬物を奉献し、近年まで当時の美術工芸品を収蔵していました。よって現在も宮内庁管轄の施設となっています。
校倉造りは湿度の高い時は外部から湿気が入らず、乾燥している時は木材が縮み、風を通すので一定の温度が保てる……という説が一般的ですが、実際に工芸品が保存状態が良かった理由としては、多重の箱に入っていたために湿度から守られたと考えられています。
東大寺はどんな理由で世界遺産に登録されているの?

東大寺が評価されたのが、以下の点。
登録基準(ii)
古都奈良の文化財は、中国や朝鮮半島との文化的な繋がりが見られ、深い影響を与えられつつ、日本の建築と芸術が当時としては高い水準に達していたということを示すという点。
登録基準(iii)
現在残る建築物や遺構からは平城京が首都であった時代に日本独自の文化が開花したということを証明しているということ。
登録基準(iv)
平城京跡と奈良に残る建造物は、アジアの最初期における国家の首都の都市計画と建造物の優れた例であるという点。
登録基準(vi)
奈良の仏教寺院と神社は、山や森を神格化するという日本独自の神道思想などが見られ、これは今でも日本人精神に残っていて、宗教的な文化を継承し続けているということ。
世界遺産マニアの結論と感想
東大寺は、中国や朝鮮半島から入ってきた仏教の影響を受けて作られたものではありますが、東大寺の建築様式は各時代における日本独自の建築様式も見られ、芸術価値が高いという点で評価されています。
ちなみに、江戸時代に再建された奈良の大仏ですが、当時は京都の方広寺には3代目の大仏があり、これは高さ約19mもあったために、当時の日本では2番目の高さでしかなかったのですが、1798年に落雷によって燃えてしまったために、繰り上げで日本一の高さとなったというエピソードも。ちなみに現在の日本では高さ120mの牛久大仏のように、各地で大仏の建設ラッシュとなっていて、本家の奈良の大仏の高さはTOP10どころか圏外です…。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。