パナマの世界遺産候補「パナマの植民地時代の地峡横断道路」とは?世界遺産マニアが解説

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登録区分(暫定リストに記載)文化遺産
登録基準(暫定リストに記載)(2), (4), (5), (6)
申請年(暫定リストに記載)2017年

パナマは、大西洋と太平洋の間に位置し、ここは2つの海を結ぶ地峡であることから、16世紀にこの地を支配したスペイン帝国によって2つの地峡横断道路が建造。世界遺産としては、2つの地峡横断道路と、カリブ沿岸と太平洋側の遺構が合わさって登録され、ここが「太陽が沈まない国」スペインにとって軍事・商業的に重要なルートであったことを示すという点で評価されています。

ここではパナマの植民地時代の地峡横断道路がなぜ世界遺産候補なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、地峡横断道路について詳しくなること間違いなし!

目次

パナマの植民地時代の地峡横断道路とは?

カスコ・ビエホ/パナマ歴史地区
画像素材:shutterstock

スペイン帝国(1492〜1976年)の探検家が、16世紀にパナマに辿り着くと、1519年にパナマ市が建設されました。ここはやがて新大陸の植民地の要衝となり、ペルー副王領(1542〜1824年)に含まれるようになりました。パナマは中央アメリカにおいて最も幅が狭いという地峡地帯でもあり、太平洋と大西洋を陸上交通で容易に結ぶことができることから、商品を輸送する地峡横断道路が築かれました。この道の完成により、各地の植民地との交易ネットワークが生まれるようになったのです。特に南米で生産された銀の約6割がここを通過しました。

しかし、ここはフランスやイギリスなど、当時のヨーロッパ列強との係争地となり、スペインは横断道路を保護するために太平洋と大西洋側の入口に要塞を築き上げていきます。そして、こちらの世界遺産には、個別で登録されている「パナマ・ビエホとパナマ歴史地区」と「パナマのカリブ海側の要塞群: ポルトベロとサン・ロレンソ」も含まれているのが特徴。

登録されている主な構成遺産

パナマ・ビエホとパナマ歴史地区

パナマ歴史地区
画像素材:shutterstock

現在のパナマ・シティから東へ約7kmの位置にある考古学遺跡は、パナマ・ビエホ(古いパナマ)と呼ばれる街の起源でもある場所。ここは南米大陸とスペインを結ぶ航路を繋ぐ地であり、1519年に設立された太平洋岸におけるスペインの最初の植民都市でした。

しかし、1671年にイギリスの海賊ヘンリー・モーガン(1635年頃〜1688年)によって破壊され、現在は廃墟となりました。その後、建造された現在の歴史地区には大聖堂や修道院、邸宅が今でも残っています。

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パナマのカリブ海側の要塞群:ポルトベロとサン・ロレンソ

ポルトベロ
画像素材:shutterstock

パナマ運河のカリブ海側に位置するポルトベロとサンロレンツォはコロン州の港町。この2つの港町にある要塞跡が世界遺産に登録されています。これらにはヨーロッパの建築が取り入れられ、それが中米の建築様式に変化をもたらしました。

船が運河を安全に横断するため、スペインによってカリブ海沿岸に築かれものの、海賊により破壊が続き、何度も再建。

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カミノ・デ・クルセス

サン・ロレンソ
画像素材:shutterstock

パナマ海峡沿いを横断する道路で、北はサン・ロレンソ、南はパナマ・シティを結んでいました。ここは16世紀初頭には既にルートが結ばれていたものの、道路だけでなく、海や川の航路を含めているというのが特徴。後に建造されるパナマ鉄道やパナマ運河の前身とも呼べる存在でもあります。

17世紀にパナマ・シティが破壊され、さらに18世紀にカリブ海側のポルトペロが破壊されると、このルートがメインとなるものの、19世紀に鉄道が建設されると、ルートの半分は放棄されました。とはいえ、パナマ・シティと海峡近くのベンタ・デ・クルセスを結ぶ約36kmの陸路は現存していて、ここはハイキングルートとしても有名。

カミノ・レアル

ポルトベロ
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パナマ海峡の東側を横断する道路で、北はポルトベロ、南はパナマ・シティを結ぶもの。当初は北の入口はノンブル・デ・ディオスという港町に置かれていたものの、すぐに破壊され、ポルトベロに移行。カミノレアルとは「王の道」という意味で、16世紀に建造されたものの、当初はジャングルを通る簡素な道でした。ここは後に舗装され、南米各地から持ち運ばれた金銀財宝の輸送に利用。

しかし、ここは海賊に襲撃されることも多く、1739年にポルトベロが破壊されると、19世紀には放棄されます。ルートは90〜100kmほどあったとされるものの、途中にある人造湖・アラフエラ湖の中に沈んでいるルートもあり、北部のチャグレス国立公園とポルトベロ国立公園内の遺構の保存状態は比較的良好。

パナマの植民地時代の地峡横断道路はどんな理由で世界遺産に登録される予定なの?

ベンタ・デ・クルセス
画像素材:shutterstock

地峡横断道路が評価されたのが、以下の点。

登録基準(ii)
パナマの地峡横断道路は、スペインが管理した大陸間のルートであり、王室と南米の支配地を結びつける重要なルートの一つとなりました。ここは1万1000年以上に渡る人間の居住地であり、アメリカ大陸でも古い時代の遺跡が存在し、スペインのによる建築物や技術、都市計画、軍事要塞、文化などが見られ、何千年にも渡る異なる文化の交流が見られるという点。

登録基準(iv)
16世紀にヨーロッパ人が太平洋へと辿り着き、スペインの中南米の前哨基地であったことから、パナマが建国へと繋がり、大陸横断ルートと海上ルートが開発されてきました。そのため、その景観に適応するために独自の軍事建築と都市設計が見られ、パナマ地峡はスペインの通商圏における政治的な手段でもあったということ。

登録基準(v)
パナマの植民地時代の地峡横断道路は、人間と環境の相互作用の優れた例であり、2つの世界遺産に加え、遺跡や記念碑、建造物、歴史都市を含めて文化的景観が見られ、人々が横断することで、異なる民族間の関係と影響を示すもの。これらにより、技建築様式の融合、地形に合わせた軍事建築、輸送路の統合を可能とした建築技術の適応が見られるという点。

登録基準(vi)
メキシコの太平洋側のアカプルコとカリブ海側のベラクルスの交易と並んで、パナマとポルトベロの交易に関しては、海賊やアフリカのディアスポラ(民族離散)、宗教、文化、建築様式の分野において歴史的に重要な地。これにより、この地域の文化と融合し、5世紀に渡ってヨーロッパの支配を受けることで、交易都市に品々や人々を輸送するための基点が確立され、世界へと影響を与えました。そして、1826年に南米の独立戦争を指揮したシモン・ボリバル(1783〜1830年)がパナマで会議を開くほどに政治的な影響力があったということ。

世界遺産マニアの結論と感想

パナマは、1万年以上前から人々の定住地であり、16世紀にスペインがこの地を支配するようになると、ここは太平洋と大西洋を結ぶ道路や海路が合わさり、輸送ルートが発展。これにより軍事建築や都市計画だけでなく、この地では文化や宗教、民族なども融合していきました。そして、パナマはスペインからの独立戦争においてもこの地で会議が開かれるほどに政治的な影響力があったという点で評価されています。

ちなみに、カリブ海側の現在の入口はコロンという都市で、1850年に建設された新しい都市。ここは重要な貿易港なのですが、周囲から貧困層が多く移り住んだことから、治安が悪く、世界でも有数の「危険な都市」としても有名です。

※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。

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この記事を書いた人

世界遺産一筋20年以上!遺跡を求めて世界を縦横無尽で駆け抜ける、生粋の世界遺産マニアです。そんな「世界遺産マニア」が運営するこちらのサイトは1100以上もある遺産の徹底紹介からおもしろネタまで語り尽くすサイト。世界遺産検定一級取得済。

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