登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (3), (6) |
登録年 | 2013年 |
静岡県と山梨県にまたがる富士山といえば、日本一高い山で有名ですが、実は自然遺産ではなく、その文化的な価値が認められて「文化遺産」として登録されています。ところで、富士山はなぜ世界遺産に登録されているのでしょうか?意外と知ってそうで知らない!
今回は富士山-信仰の対象と芸術の源泉がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、富士山について詳しくなること間違いなし!
世界遺産・富士山-信仰の対象と芸術の源泉とは?なぜ評価されたのかを簡単に解説!
標高3776mと日本一高い山として有名な富士山。山頂から駿河湾まで山麓が続いて、成層火山としては世界有数の高さを誇ります。ここは古くから崇拝の対象とされていて、その美しさから日本の芸術にインスピレーションを与えてきました。世界遺産としては、富士山の山域を中心に周辺の神社や遺構も含めて、静岡県と山梨県にまたがって25もの構成資産があります。
富士山は古くから日本の歴史に登場し、「遥拝(ようはい)」として山麓から山頂を見て参拝する対象となっていて、8世紀以前からこの地には神社が建立されたと伝わっています。9世紀の富士山は非常に活発な時期で、その噴火を沈めるために、南麓に「富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)」の前身が築かれ、富士山に鎮座する神を「浅間大神(木花之佐久夜毘売命、コノハナノサクヤビメ)」として崇拝されました。そして、北嶺には河口浅間神社が建立。
11世紀になると、富士山は火山活動が休止し、中国から伝わった密教や道教と融合した修験道が誕生すると、山頂へ登りながら祈りを捧げるという「登拝(とはい)」が行われるようになりました。周辺の登山口には、富士浅間神社(東口本宮冨士浅間神社)や須山浅間神社など、多くの神社が建立されていきます。
15世紀末から16世紀になると、長谷川角行(かくぎょう)という修験者が山麓にある「人穴」に籠もって「水垢離(みずごり)」修行を続け、彼は開祖として「富士講」と呼ばれる富士山の山岳信仰を行うようになり、18世紀後半には一般市民も登拝に参加するようになりました。
この時期に登山道が整備され、北口本宮冨士浅間神社などが建立されていきます。そして、富士講を行う信者たちのための宿泊所や食事の用意、登山道の案内などを行う「御師(おし)」と呼ばれる人々が麓で活躍しました。現在も彼らの邸宅が残されています。
富士山は14世紀以降、多くの芸儒家によってモチーフにされ、作品が多く作られました。富士山は修行や巡礼を通じて「疑似再生」を行う独自の文化が生まれていきました。
江戸時代になると、絵画だけでなく、文学や庭園、工芸品などのモチーフになりました。19世紀になると葛飾北斎の『富嶽三十六景』などの浮世絵は日本だけでなく、西欧美術において大きな影響を与え、フランスの印象派にも繋がっていきます。富士山そのものが日本のシンボルとして世界各地にその名が広がっていったというのも評価のポイント。
富士山-信仰の対象と芸術の源泉はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
富士山が評価されたのは、以下の点。
登録基準(iii)
成層火山として雄大な富士山は、断続的な火山活動があったことから、古代から現代にいたるまで伝統的な山岳信仰が残っています。巡礼者は、山頂への登拝や麓の神社への巡礼を通じて、神仏の力を得ることを望むという富士講は富士山への深い崇拝に結びつくもの。富士山の均整のとれた美しい姿は、無数の芸術作品にもインスピレーションを与え、自然と共生しながら独自の伝統へと結びついていました。関連する文化遺産には、富士山の崇拝を中心とした伝統文化が残されているという点。
登録基準(vi)
富士山の景観は湖や海の上にそび立つように火山が位置するというイメージで、これは古くから文学や芸術などのインスピレーションを与えてきました。特に19世紀の葛飾北斎や歌川広重の浮世絵に描かれた富士山の姿は、その後、西洋美術の発展に大きな影響を与え、現在も世界中で知られる名山であるということ。
の2つ。つまり、
「富士山は火山として古代から崇拝の対象で、周囲は富士山への信仰のための神社や巡礼者を迎えるための施設が並び、この美しい景観は浮世絵のモチーフになったことで、西洋美術に関しても大きな影響を与えた」
ということですね。
登録されているのは、以下の25の構成資産。富士山の山域だけでなく、富士山の周囲の湖や神社、富士講に関する遺構なども合わせて登録されています。
・富士山域
・富士山本宮浅間大社
・山宮浅間神社
・村山浅間神社
・須山浅間神社
・冨士浅間神社(須走浅間神社)
・河口浅間神社
・冨士御室浅間神社
・御師住宅(旧外川家住宅)
・御師住宅(小佐野家住宅)
・山中湖
・河口湖
・忍野八海(出口池)
・忍野八海(お釜池)
・忍野八海(底抜池)
・忍野八海(銚子池)
・忍野八海(湧池)
・忍野八海(濁池)
・忍野八海(鏡池)
・忍野八海(菖蒲池)
・船津胎内樹型
・吉田胎内樹型
・人穴富士講遺跡
・白糸ノ滝・三保松原
それでは、ひとつひとつ解説していきましょう。
富士山-信仰の対象と芸術の源泉の構成資産をご紹介
1、富士山域
富士山本宮浅間大社 奥宮
浅間神社の総本社。富士宮市の富士山本宮浅間大社が本宮となっていて、富士山頂に奥宮(おくみや)が鎮座します。12世紀には修験者によって経典や仏像などが奉納した施設(後の大日堂)が置かれましたが、それ以前にも登頂者による遺品なども存在したという記録もあり、古くから神聖な場所とされてきました。
浅間大社の支配権が当時の江戸幕府から認められたのは18世紀以降で、明治時代の廃仏毀釈運動によって、ここに置かれていた仏像が取り除かれ、浅間大社の奥宮となりました。
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北口本宮冨士浅間神社
富士吉田市にあり、吉田口登山道の起点でもある神社。ここは日本武尊(やまとたける)によって大鳥居を建てたという伝承があり、8世紀には神殿が存在したとされます。現在の本殿は1615年に建立されたもので、その後も18世紀に富士講の指導者であった村上光清によって、幣殿や拝殿など、周囲には恩師の宿坊が並ぶようになり、巡礼者が多く集まりました。
豪華絢爛な本殿は、一間社入母屋造りとなっていて、檜皮葺屋根を持つもの。
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西湖
富士五湖でも中央に位置し、面積は2.1平方kmと4番目の広さ。富士山の火山活動によって生まれた堰止湖(せきとめこ)で、かつては西側の本栖湖と繋がっていましたが、800年の噴火によって本栖湖と分かれ、貞観大噴火(864〜866年)によって精進湖と分断されてしまいました。現在もこの3つの湖は地下で繋がっていると考えられています。
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本栖湖
富士五湖でも最も西側に位置し、面積は4.7平方kmと3番目の広さではありますが、最大水深121.6mと最も深いのが特徴。平安時代初期までは「剗の海(せのうみ)」と呼ばれる広大な湖でしたが、800年の噴火によって西湖と分かれてしまい、現在の本栖湖が誕生しました
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2、富士山本宮浅間大社 本宮
富士宮市にある全国の浅間神社の総本社。前述の奥宮を含めて広大な敷地が境内となっていて、本宮が一般的に「浅間神社」と呼ばれています。明治時代から「富士山本宮浅間神社」というのが正式名称ではありますが、1982年から現在の「富士山本宮浅間大社」となりました。
江戸時代の記録によると、806年までは既に存在していた「山宮浅間神社」で、富士山に鎮座する神を「浅間大神(木花之佐久夜毘売命、コノハナノサクヤビメ)」を祀っていたものの、806年に征夷大将軍でもあった坂上田村麻呂によって分祀され、現在の大宮がある地に社殿を造営しました。
古くから富士山の南麓においては中心的な神社となり、1604年に徳川家康によって、関ヶ原の戦いの戦勝を記念して社殿が作られ、本殿は二重に楼閣造である「浅間造」として有名。境内にある「湧玉池(わくたまいけ)」は富士山の伏流水が水源となっています。
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3、山宮浅間神社
富士宮市の山宮にある神社。ここは「富士山本宮浅間大社」の前身とされていて、806年に移転する前にはここに遥拝所が存在していたとされています。よって、ここには本殿がなく、富士山を拝む方向に置かれた祭壇や石列がある遥拝所が残っていて、周囲には祭祀用の土器なども発掘。
江戸時代になると浅間大社の摂社となり、「山宮御神幸」という浅間大社と山宮浅間神社を往復する神事が行われいて、当時神事で使用されていた鉾(ほこ)を休ませる「鉾立石(ほこたていし)」が2つの神社で残っています。
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4、村山浅間神社
富士宮市にある浅間神社の一つで、大宮・村山口登山道の途中に位置する神社。かつては富士山興法寺を構成する寺社の一つで、戦国武将の今川氏の庇護を受け、江戸時代は大名や旗本の代参(本人に変わって参拝すること)多くの修験者が集まる場所でもありました。しかし、明治以降は修験道廃止によって衰退してしまいますが、大日如来を祀る「大日堂」など、当時の繁栄の様子が伝わります。
5、須山浅間神社
裾野市にある浅間神社の一つ。須山口登山道の入口に頓挫する神社で、古くは日本武尊によって社殿が建造されたという伝承が残りますが、須山口は鎌倉時代〜室町時代ころから利用されていた主要ルートでしたが、宝永大噴火(1707年)で須山口が消滅し、旧社殿も被害に遭ったとされています。現在の社殿は1823年に再建されたもの。須山口はその後、復活したものの、メインルートとしては利用されなくなってしまいました。
6、冨士浅間神社(須走浅間神社、東口本宮冨士浅間神社)
小山町須走にある浅間神社の一つ。須走口登山道の入口に位置する神社で、ここは駿河国と開国を結ぶ街道沿いの宿場町でした。創建は807年と歴史は古く、弘法大師(空海)が修行したという伝承が残るほど。宝永大噴火(1707年)で社殿と宿場町は埋没したものの、現在の社殿はそれ以降再建されました。登山道に繋がる参道の脇には、富士講の記念碑などが残っています。
7、河口浅間神社
富士河口湖町にある浅間神社の一つ。河口湖の北東に位置する神社で、創建は865年と古くから存在しています。ここは登拝が大衆化した時に御師の集落として発展するも、富士吉田の発展によって衰退していきました。現在の本殿は1607年に徳川家康の家臣であった谷村藩領主の鳥居成次(なりつぐ)によって再建されたもの。
唐破風の向拝を備えていて、社殿の近くには樹齢1200年を越える七本のスギがあり、神木として祀られています。
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8、冨士御室浅間神社
富士河口湖町にある浅間神社の一つ。河口湖の南方に位置する神社で、699年創建と富士山の山中にある神社としては最古のもの。かつての本宮は吉田口登山道の二合目に存在していましたが、958年に現在の河口湖の南側へと移転し、ここを里宮(さとみや)としました。
現在の社殿は1889年に再建。本宮本殿は1612年に谷村藩領主の鳥居成次によって建造された入母屋造りの優雅な建造物で、1973年に里宮に移転。
9〜10、御師住宅(旧外川家住宅と小佐野家住宅)
「御師(おし)」とは、特定の社寺の信者たちのための宿泊所で、食事の用意だけでなく、参拝の案内まで行う神職のこと。特に富士講では、登山の世話を行うということもあり、非常に重要な役割をもっていました。
「旧外川家住宅」は、北口本宮冨士浅間神社の門前町に建つ住宅で、長らく御師として活躍し、現在の邸宅は1768年から増築をしつつ残されてきたもの。ここは重要文化財となり、富士吉田市によって管理されています。「小佐野家住宅」は1861年から残る住宅ではありますが、こちらは個人宅のため非公開。
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11、山中湖
富士五湖でも最も東側に位置し、面積は6.77平方kmと最大の面積を持つもの。延暦大噴火(800〜802年)の際に溶岩によって川をせき止められ、現在の山中湖が形成。ここは相模川の源流ともなっています。
湖面に逆さ富士が綺麗に映ることから、展望スポットとして人気で、リゾートホテルなどの宿泊施設やレストラン、公園、研究所などが湖畔に多く点在。最大水深は13.3mと非常に浅く、冬は氷結することからワカサギの穴釣りができることでも有名です。
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12、河口湖
富士五湖でも最も北側に位置し、面積は5.48平方kmと2番目の広さではありますが、最大水深は14.6mと最大。ここは9世紀に溶岩流によって、西側に位置していた剗の海(せのかわ、現在の本栖湖と西湖)が排水する形で水が溜まり、現在の河口湖が形成されていきます。ここは流れ出る川がないタイプの湖のため、古くから洪水に悩まされ、用水路の開発が進められてきました。
河口湖は早くから観光開発され、平成には温泉を掘削して、富士河口湖温泉郷が作られ、ホテルや旅館、飲食店、お土産屋が並ぶエリアでもあります。
13〜20、忍野八海(おしのはっかい)
山中湖の北西に位置する忍野村にある8か所の湧泉(ゆうすい)は「忍野八海」と呼ばれます。ここは富士山や周辺の杓子山・石割山の伏流水が水源となり、透明な地下水が湧き出て形成されたとされました。もともとは霊場であり、富士講で訪れた人々が8つの湧水を巡る「八海巡り」をしていたことから、「八海」と呼ばれています。
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21と22、船津胎内樹型と吉田胎内樹型
富士スバルラインの入口付近にある溶岩洞で、国の天然記念物にも登録。樹木を取り込んだ複雑な構造の洞窟であるために、女性の胎内に例えられ、17世紀に長谷川角行によって発見されました。「船津胎内樹型」は浅間大神化身として、木花開耶姫が祀られていて、安産祈願の対象となり、富士講の巡礼の場所となっています。
「吉田胎内樹型」は、937年の噴火によって形成され、内部は非公開ですが、吉田胎内祭やツアーなどで訪れることは可能。
23、人穴富士講遺跡
富士宮市にある富士山の噴火で形成された溶岩洞穴。ここは富士講の開祖である長谷川角行が修行した地であり、入滅した場所とされています。洞穴には、祠や碑塔、石仏があるものの、現在は立ち入り禁止。近くには人穴浅間神社があり、富士講の信者たちの墓地となっていて、角行の墓だけでなく、墓碑は230以上あるとされています。
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24、白糸ノ滝
富士宮市にある無数の滝が並ぶというエリア。ここは2〜3万年前の富士山の噴出物が堆積した「古富士泥流」の上に溶岩流があることから、各層の隙間から地下水が多く流れ出て、それが絹糸のように見えることから「白糸ノ滝」と呼ばれています。高さ20mにもかかわらず、その水量は毎秒1.5トンにもなるというほど。
ここは富士講の巡礼地の一つで、有名な指導者である食行身禄(じきぎょうみろく)の供養碑が今でも残っています。
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25、三保松原
静岡市清水区の三保半島にある有名な景勝地。約7kmに渡って続く砂浜に3万ほどの松の木が続き、駿河湾の奥に富士山が見えるという景観は、和歌の題材にもなり、江戸時代になると浮世絵にも多く描かれています。
世界遺産としては、富士山から45kmも離れていて、ユネスコの諮問機関であるICOMOSには除外すべきと勧告はされたものの、最終的には登録されました。登録範囲としては、南側の羽衣公園から北側の清水灯台まで登録されていて、御穂神社と参道である「神の道」も含めているのが特徴。
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世界遺産マニアの結論と感想
日本一高い山である富士山は、今は沈静化していますが、記録が残る奈良時代や平安時代から火山活動が盛んで、古代から崇拝の対象でした。そして、富士山の信仰のための神社や巡礼者を迎えるための施設が並ぶようになりました。古来から美しい景観は和歌や浮世絵のモチーフになったことで、やがて西洋美術に関しても大きな影響を与えたという点で評価されています。
ちなみに、1990年代には富士山を世界遺産にするという運動が盛り上がった時は、自然遺産として登録が検討されたものの、登山で発生するゴミ問題だけでなく、実は火山としては割と平凡で、固有種も生息しておらず、自然遺産としての価値は見いだせなかったということもあり、見送られました。言われてみれば、富士山の価値というのは、自然というよりも文化にある…ということで、方向転換で文化遺産となったという経緯があります。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。