登録区分 | 文化遺産 危機遺産2023年〜 |
登録基準 | (1), (2), (3), (4) |
登録年 | 1990年 |
首都キーウ(キエフ)にある聖ソフィア聖堂は、キエフ大公国(キエフ・ルーシ、882年頃〜1240年)の時代に築かれたもので、コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)のアヤソフィアに匹敵するほどの規模で設計されたもの。そして、キエフ・ペチェールシク大修道院は中世の文化の中心地でもありました。
ここではキーウ(キエフ)の聖ソフィア大聖堂と関連する修道院群及びキエフ・ペチェールシク大修道院がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、聖ソフィア大聖堂とキエフ・ペチェールシク大修道院について詳しくなること間違いなし!
※こちらでは、現在のウクライナの首都は「キーウ」とし、過去のキーウや建築物などの名称を示す場合は「キエフ」を使用することもあります。
キーウ(キエフ)の聖ソフィア大聖堂と関連する修道院群及びキエフ・ペチェールシク大修道院とは?その歴史を解説
キーウは、キエフ大公国の時代は「ルーシ」と呼ばれ、これが「ロシア」という地名の語源となっているように、現在のロシアのルーツ的な場所。キーウはソ連から独立した後はウクライナの首都となり、この地に残る聖ソフィア大聖堂とキエフ・ペチェールシク大修道院は、キリスト教の東端であるこの地に栄えたキエフ大公国時代の名残を現在に伝えるもの。
聖ソフィア大聖堂
旧市街に位置する聖ソフィア大聖堂は、市内でも最古の聖堂。ここは9世紀末、キエフ大公国が設立し、キリスト教(正教会)を国教化した後に建造されたとされ、当時の大公であったヤロスラフによって1037年に建造されたもの。名前はコンスタンティノープルにあったハギア・ソフィア大聖堂(アヤソフィア)にあやかって名付けられました。その後、大聖堂は公国初の図書館と大学が存在し、ギリシャやロシアの書物が多く保管されています。
聖堂はビザンツ様式とロシアの伝統様式が融合した造りになっていて、屋根には黄金のドームを含めた13のドームがあります。内部のモザイクやフレスコ画は11世紀当時から存在するもので、特にアプシスと呼ばれる半円形の天井スペースに描かれた「オランス(祈り)」の聖母像のモザイクはガラス石を300万個使用して築かれた傑作。
18世紀になると、当時のロシア皇帝ピョードル大帝によって外観だけバロック様式(ウクライナ・バロック)が加えられ、要塞として使用されるようになりました。
キエフ・ペチェールシク大修道院
キーウの中心部から少し離れた位置にある修道院で、ここは11世紀にギリシャのアトス山出身の修道士が、ドニエプル川沿いの洞窟で修行を始め、そこに修道院が建てられたことからペチェールシク(洞窟)と名付けられました。ここは教育、芸術、医学の発展に大きく貢献し、文化の中心地として中世に活躍。
しかし、当時の建造された建物は13世紀にモンゴル軍によって損壊してしまったため、現在の建造物はウクライナ・バロックで再建されたもの。敷地内には修道士が神と向き合うための地下洞窟があるのが特徴で、ここは墓地を含めて「下の修道院」と呼ばれます。地上にある「上の修道院」には、教会や大聖堂、博物館など、壮麗な建築物が点在。
危機遺産(危機にさらされている遺産)
2022年のロシアのウクライナ侵攻によって、都市は攻撃の対象とされていることから、2023年から危機遺産として登録。
キーウ(キエフ)の聖ソフィア大聖堂と関連する修道院群及びキエフ・ペチェールシク大修道院はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
聖ソフィア大聖堂とキエフ・ペチェールシク大修道院が評価されたのが、以下の点。
登録基準(i)
聖ソフィア大聖堂とキエフ・ペチェールシク大修道院は、設計や装飾において、人間の創造的資質を示す例であるという点。
登録基準(ii)
聖ソフィア大聖堂とキエフ・ペチェールシク大修道院は、キエフ大公国やビザンツ帝国、西ヨーロッパなどの文化が融合して生まれ、特に聖ソフィア大聖堂は12〜15世紀の東欧において同様の建築物が多く建設されていったということ。
登録基準(iii)
聖ソフィア大聖堂とキエフ・ペチェールシク大修道院は、キエフ大公国がビザンツ帝国が弱体していく過程の中で、何世紀にも渡って文化を継承したということを示し、これが東欧の宗教において大きな影響を与えたという点。
登録基準(iv)
聖ソフィア大聖堂の建築様式と壁画は非常にユニークで、その後のキエフ大公国と東欧の建築や記念物に影響をあたえるほど。キエフ・ペチェールシク大修道院は9世紀に渡て破壊と再生を繰り返し、建物からはその経緯などが見られるということ。
世界遺産マニアの結論と感想
キーウに残る聖ソフィア大聖堂とキエフ・ペチェールシク大修道院は、ビザンツ帝国が衰退していく中で、正教会の中心地となっていく背景の中で作られたもの。これらは現地の文化や西ヨーロッパの文化が混じりながら独特の建築様式を築き上げていき、それが東欧のキリスト教建築の発展に繋がっていったという点で評価されています。
キエフ・ルーシの「ルーシ」は、もともとはキーウ周辺を示していた言葉で、それが拡大していき、キエフ・ルーシとなり、これが現在のウクライナ北部からロシア西部を支配したためにルーシのエリアは拡大していきます。13世紀にキエフ大公国が滅ぶと、今度はモスクワを中心としたモスクワ大公国が生まれ、国号となったためにロシアが誕生した…という経緯があります。非常に複雑ですが、ウクライナとロシアは歴史的には「親子」や「兄弟」とも言えるんですよね。非常に複雑ですが…。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。