登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (2), (3), (4), (5) |
登録年 | 1987年 |
メキシコの首都メキシコシティは、16世紀にスペインによって滅ぼされた、アステカ帝国の都テノチティトランの上に建設された都市。アメリカ大陸で最大の大聖堂や地下から発掘された神殿、テンプル・マヨールなど、過去と現在が混在する都市でもあります。町の南部にあるソチミルコと呼ばれる農地エリアは、アステカ以前の伝統が今も残っており、こちらも合わせて登録。
ここでは、メキシコシティ歴史地区とソチミルコがなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、メキシコシティとソチミルコについて詳しくなること間違いなし!
メキシコシティ歴史地区とソチミルコとは?
メキシコシティ歴史地区
かつての名前はテノチティトラン。ここは現在でもメキシコ最大の都市。もともとテノチティトランは盆地の上の湖を開拓して造られた都市でもありました。この地にはテスココ湖と呼ばれる湖があり、その小さな島を開拓してアステカ帝国(14〜16世紀にメキシコ高原に栄えた国)の首都テノチティトランが築かれたのです。この島には運河が作られ、対岸に向かって3つの橋がかけられてたという「水の都」でした。
しかし、16世紀にスペインからやってきた征服者コルテスが徹底的に破壊。湖を排水し、廃墟の上にヨーロッパ風の都市・メキシコシティを建設したました。
これが現在の街の基盤となっていて「ソカロ」と呼ばれる中央広場を中心に碁盤の目のように道路が作られ、新大陸の植民都市のモデルとなったのです。ここには、アステカ帝国時代の宮殿を利用した国立宮殿、かつての聖域の上に築かれたメトロポリタン大聖堂など、テノチティトラン時代の建造物を再利用したものが多いのが特徴。
ソチミルコ
メキシコシティから南へ約30km。ここには水郷地帯で、昔から農地として活躍していました。スペインが支配する前の伝統的な暮らしが今でも見られます。カラフルなゴンドラ風の船が運河を行くという観光地としても有名。
ここには「チナンパ」と呼ばれる、湖に生えるアシを敷物のように編んで作った浮島に泥を盛り上げていった人工農地があることでも知られ、これはアステカ時代から利用されていたものとして評価。
登録されている主な構成資産
パラシオ・ナシオナル(国立宮殿)
ソカロの東に位置する広大な宮殿。ここはかつて、アステカ帝国の皇帝モクテスマ2世の宮殿があった場所で、廃墟となった後は1523年に征服者コルテスによって宮殿が作られたものの、17世紀に火災で焼失。現在の建造物は18世紀に副王官邸として建てられたもので、大統領官邸として利用されています。
メトロポリタン大聖堂
アメリカ大陸最大の大聖堂で、聖母の被昇天メトロポリタン大聖堂とも呼ばれます。1573年に着工し、完成したのは19世紀となったため、ルネサンスやバロック、新古典主義様式など、さまざまな建築様式が織り混ざっているのが特徴。
テンプロ・マヨール
ソカロの北東に位置する遺跡のこと。ここはテノチティトランの宗教儀礼が行われていた地で、7層のピラミッド型の神殿が2つ並べて置かれていました。しかし、1520年代にコルテスによって破壊されると、地下に埋没。1978年に地下鉄の工事をしていたところ、女神コヨルシャウキの円板が発見され、ピラミッドの下の基壇が発見されました。
ここにはかつて頭蓋骨置き場(ツォンパントリ)や球技場などがあったとされ、広大な宗教施設だったと考えられています。
メキシコシティ歴史地区とソチミルコはどんな理由で世界遺産に登録されているの?
メキシコシティとソチミルコが評価されたのが、以下の点。
登録基準(ii)
14〜19世紀にかけて、この地はテノチティトランからメキシコシティへと変わり、アステカ帝国の建築技術などが植民地時代の建設物にも影響を与えているという点。
登録基準(iii)
地下に埋没していたテンプロ・マヨールは、この地でかつて繁栄したアステカ文明の存在を示すということ。
登録基準(iv)
広場を中心として碁盤の目のように通路が配されるという都市設計は、植民都市を代表するモデルであるという点。
登録基準(v)
ソチミルコの農業風景は、スペインによる征服前のメキシコ高原の暮らしを彷彿とさせるというものであるということ。
世界遺産マニアの結論と感想
メキシコシティは、16世紀にはコルテスによって破壊された、アステカ帝国の都市テノチティトランの上に建造されたもので、地下にはかつての神殿などが見つかるものの、ここは南北アメリカの植民都市のモデルとなっているということで評価。そして、郊外のソチミルコはアステカ帝国時代の農場風景が今でも残っているという点もポイント。
ちなみに、歴史地区には江戸時代の慶長遣欧使節であった支倉常長が泊まったとされるタイルの家も現存していて、現在は一部をレストランとして活用しています。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。