フマーユーン(1508〜1556年)はムガル帝国(1526〜1539年・1555〜1858年)の第2代皇帝。彼は若くして即位したため、一度は王位を追われながらも復権を果たししました。フマーユーンとはどういった人物だったのでしょうか?
今回はフマーユーンがどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、フマーユーンについて具体的に理解できること間違いなし!
フマーユーンとはどんな人物?

1508年にカーブル(現アフガニスタンの首都)で初代皇帝であり、父であったバーブルの長男として生まれました。1530年にバーブルが死亡したために22歳で即位。即位当初、ムガル帝国はまだ不安定で、多くの敵対勢力が存在しました。彼の最大のライバルであり、後にスール朝を創設したシェール・シャー(1486〜1545年)によって、フマーユーンの軍は巧みに撃破。1540年にカナウジの戦いでたシェール・シャーに決定的敗北を喫し、インドを追われてしまいます。
彼は隣国のサファヴィー朝(イラン)のタフマースブ1世の庇護を受け、1555年にサファヴィー軍の支援を得てインドに帰還し、デリーを奪還。皇帝に復位するも、翌年に図書館の階段から転落し、突然の事故死(享年47歳)。
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デリーのフマーユーン廟/インド



首都デリーにあるフマーユーン廟は、ムガル帝国の建築物の中でも最初期の墓廟であり、ペルシャ出身の王妃ハミーダ・バーヌー・ベーグムによって1570年に完成。ペルシャ出身の建築家ミラーク・ミルザー・ギヤースの指揮のもと、9年の歳月をかけて建造されたもの。
フマーユーンはペルシャに亡命していたこともあり、建築物はペルシアとインドの融合したもので、庭園はペルシャ式の四分庭園(チャハル・バーグ)も見られます。これはインドにおける墓廟建築の基礎となり、アーグラのタージ・マハルに多大な影響を与えたもの。
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世界遺産マニアの結論と感想
フマーユーンは学問や芸術には熱心だったものの、政治・軍事面ではあまり成果を残すことはできず、一度は帝国を崩壊させてしまいます。一方、亡命したサファヴィー朝との外交関係を強化することによって、再び皇帝となり、ペルシャ文化をムガル帝国にもたらしたことにより、結果的には後の繁栄へと繋がったという点では偉大だったかもしれませんね。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。