「エルサレム神殿(神殿の丘)」とは?かつての構造を含めて世界遺産マニアが解説

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エルサレム神殿とは、現在のエルサレム旧市街に存在したユダヤ教の礼拝所であった場所。現在は「神殿の丘」としてイスラム教徒が岩のドームを置いていて、彼らが管理する一方、その西側の壁こそが有名な「嘆きの壁」としてユダヤ教の聖地となっています。

今回はエルサレム神殿を世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、エルサレム神殿について具体的に理解できること間違いなし!

目次

エルサレム神殿とは?現在も残っているの?

エルサレム神殿の模型/イスラエル博物館
画像素材:AdobeStock

現在はイスラエルとパレスチナが共同で管理するエルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地であり、かつてはエルサレム神殿があった場所。エルサレム神殿とは、旧約聖書によるとソロモン王(紀元前1011年頃〜紀元前931年)によって10世紀に築かれ、契約の箱が置かれた最も重要な場所でした。これは「ソロモン神殿(第一神殿)」と呼ばれます。しかし、6世紀になると、新バビロニア(紀元前625年〜紀元前539年)によって破壊され、ユダヤ人のほとんどが現在のイラクへと強制移住(バビロン捕囚)となりました。

そして、再びユダヤ人がこの地へと戻ってくると、同じ場所に神殿が再建され、これは「第二神殿」と呼ばれます。紀元前20年にヘロデ大王(紀元前73年頃〜紀元前4年)によって拡張されたために、再建ではないものの、改築後は「ヘロデ神殿」と呼ばれ、現在残る遺構はこの時代のもの。しかし、ローマ帝国がこの地を支配すると反乱が起こり、第1次ユダヤ戦争(66〜73年)時に破壊され、その後は二度とユダヤ教の神殿が築かれることはありませんでした。

嘆きの壁
画像素材:shutterstock

4世紀ころになるとユダヤ人はエルサレムに入ることが禁止されてしまい、その後は壁の周辺だけ立ち入ることが許されため、ユダヤ教徒は神殿の破壊を嘆き悲しみ、祈りを捧げるようになりました。10〜11世紀ころには、信徒が嘆きの壁で祈っていたという記録があることから、古くからの伝統とされています。

イスラム教徒からすると、神殿の丘にある「聖なる岩」はメディナにいた預言者ムハンマドが神の意志により、メッカからエルサレムまで旅をし、岩の上から昇天したとされる場所であるとされ、7世紀にイスラム教勢力が支配すると、岩のドームが築かれました。ドームは何度か改築されるも今も残り続け、現在はメッカやメディナに次ぐ、イスラム教徒第3の聖地となっています。

現在の神殿の丘の構造はどうなっているの?

岩のドーム
画像素材:shutterstock

もともと神殿には、アブラハムが息子のイサクを神のために捧げようとした「聖なる岩」が存在し、それを囲むように八角形のドームが覆われています。現在の建造物は11世紀に以前の建物と同じような設計で再建されたもの。大理石と瑠璃色のタイルに装飾された外観は、16世紀にオスマン帝国時代に加えられ、現在の姿になりました。

神殿の外壁の南西部分がユダヤ教徒にとって聖地である「嘆きの壁」となっていて、実は壁一つまたいでお互いの聖地が隣接しているのです。壁の高さは約19mで、地上7段目まではヘロデ大王時代のものですが、上部はイスラム王朝やイギリスの実業家によって後世に加えられたもの。神殿の丘はイスラエルが実効支配しているものの、管理はイスラム教の指導者が行っていて、ユダヤ教徒の礼拝は認められていません。

世界遺産マニアの結論と感想

嘆きの壁
画像素材:shutterstock

神殿の丘は、3000年にも渡る歴史が繰り広げられてきた場所で、エルサレム神殿は2回も破壊されてしまったものの、現在の跡地はイスラム教の聖地として岩のドームがあり、南西の壁の部分はユダヤ教の聖地となっていて、形は変われど祈りの場としては現在も巡礼者が絶えない場所となっています。

※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。

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この記事を書いた人

世界遺産一筋20年以上!遺跡を求めて世界を縦横無尽で駆け抜ける、生粋の世界遺産マニアです。そんな「世界遺産マニア」が運営するこちらのサイトは1100以上もある遺産の徹底紹介からおもしろネタまで語り尽くすサイト。世界遺産検定一級取得済。

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