登録区分(暫定リストに記載) | 文化遺産 |
登録基準(暫定リストに記載) | (2),(3),(4),(5),(6) |
申請年(暫定リスト) | 2007年 |
かつて飛鳥時代の都が存在していた明日香村と藤原京跡。古墳や寺院跡などを含めて2026年の登録を目指しています。しかし、これだけ有名な観光地なのになぜ今まで世界遺産になっていなかったのか?
ここでは飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群が、なぜ今も世界遺産でないのか?世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、世界遺産としての飛鳥・藤原の宮都について詳しくなること間違いなし!
飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群とは?

これらは一般的に飛鳥時代(592〜710年)と呼ばれる時代の建造物で、現在の奈良県中西部にある明日香村、桜井市、橿原市に残る文化財で構成されています。これらは日本という国の形成期に建造されたもので、奈良時代の都・平城京に至るまでの日本の「都」とその周辺の文化財が入り交じる文化的景観が見られるという点で評価。



この地は日本でも最初期の「都」として機能した都市で、遺跡は主に天皇や皇族が暮らした宮殿跡を含め、それらに関連した建造物が残っています。遺構を調査することで、当時の政治・社会・文化・宗教感などがよく分かるというのが特徴。キトラ古墳の壁画などは中国や朝鮮半島などからの影響も見られ、東アジアとの交流の足跡も残っています。
そして、『万葉集』などで登場する天香久山など、日本最初の詩集にも、この地の風景が度々登場しています。ここは日本古来の文学の故郷でもあり、その後の芸術の発展にも大きく影響を与えました。
飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群はなぜ世界遺産として登録されないの?



もちろん、日本政府も明日香村の文化財の価値を理解しているので、2007年には「飛鳥・藤原-古代日本の宮都と遺跡群」として、世界遺産の暫定リストとして登録しています。
しかし、この「暫定リスト」というのはあくまでも「世界遺産候補」というだけであって、正式に世界遺産に認められるには、毎年開催される世界遺産委員会にて、文化遺産としてふさわしいか専門調査が行われた後、委員会で決定され、初めて世界遺産になるのです。



2007年には暫定リストに登録されたものの、ここからがスタートで、現在は世界遺産委員会に推薦されるための準備を進めている段階です。現在は、奈良県、明日香村、桜井市、橿原市によって推薦書の素案が完成した段階で2020年には文化庁に提出。
2024年の登録を目指していましたが、2023年に登録予定だった「佐渡島の金山」が書類不備によって2024年の登録となってしまいました。それもあり、現在は2025年中に推薦書を提出し、2026年の登録を目指しています。
飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群はどんな理由で世界遺産に登録される予定なの?



日本政府が提出したの暫定リストに記載されている登録基準としては、以下の点。
※これらは2007年に暫定リストに記載された、日本における基準です。
登録基準(ii)
文化の交流を示すもの
登録基準(iii)
現存or消滅した文明の証拠
登録基準(iv)
人類の歴史を象徴する建築物の代表的な段階や景観の見本
登録基準(v)
伝統的集落や人類と環境の交流の見本
登録基準(vi)
人類史上に残る出来事や現存する伝統、思想、信仰、芸術



実は世界遺産の登録価値というのは、2010年までは言明する必要性がなかったため、暫定リストには詳しくは記載がありません。ただ世界遺産「飛鳥・藤原」登録推進協議会による特設サイトによると…
・日本という国家成立の過程を証明するもの
飛鳥・藤原という限定したエリアには、宮殿や祭祀場、庭園、寺院、古墳などの考古学遺跡があり、これらは国家成立の過程を示すもの
・東アジアとの交流を示すもの
当時中国の王朝(隋・唐)が統一され、周囲の国家では、中国の文化に影響され、ここも日本の伝統文化と東アジアの最先端の文化を融合させた文化財が多く点在するという点
…このあたりで提案していく予定です。
飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群として登録された際の構成資産
飛鳥宮跡飛



明日香村岡にある「飛鳥京跡」。実は飛鳥京の調査は1959年から始まったということもあり、本格的に研究されたのは最近でもあります。よって、発掘調査が進んで初めて分かることがあり、もともとは現在の飛鳥京跡にあった遺跡は古来から「伝飛鳥板蓋宮跡」と呼ばれ、645年に乙巳の変(大化の改新)が起こった板蓋宮(いたぶきのみや)があった場所とされていたのですが、実際に掘り進めると、いくつもの異なる遺構が重なっていることが判明。
ここは3つの遺構が見られることから、板葺宮だけがあった場所ではなかったため、2016年に名称を「飛鳥京跡」に変更したという経緯があります。
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飛鳥京跡苑池



明日香村にある、飛鳥時代の庭園跡。飛鳥川の右岸、飛鳥京の北西に位置しています。飛鳥時代に建造された苑池(庭園の池)であり、斉明天皇(594〜661年)が外国使節を歓待する場として使用されていたと考えられるもの。遺構からは、人工的に掘られた池や、石組み、水路、橋の跡が見つかり、高度な造園技術が用いられていたことがわかっています。
池は北と南にあり、南池の規模は南北約55m、東西65mと広大で、中島があり、テラス状のコテージがありました。北側では2019年に水祭祀遺跡が発掘され、ここは庭園としての役割以外があったとも考えられます。
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飛鳥水落遺跡
明日香村にある、飛鳥時代の遺跡。ここは「漏刻台」のために建造された設備であったとされ、漏刻の構造としてはいくつかの水槽に細い管で水が流入するようにして、その水面の高さで時間を測るというもの。これは『日本書紀』から天智天皇(626〜672年、かつての中大兄皇子)の時代に建造されたということが判明しています。
中央には水槽の跡があり、ここでは給水や排水が行われるようになっていて、この台の水位の変化によって四方にある鐘鼓(しょうこ)を供えた建物から時を知らせていたと考えられるもの。
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酒船石遺跡



明日香村にある、飛鳥時代の遺跡。酒船石は飛鳥宮の北東の丘の上にあり、長さは約5.5m、幅約2.3m、厚さは約1mで、上面には皿のようなくぼみがいくつかあり、それらが溝で繋がっているという不思議な石です。
そのミステリアスな石の目的は、江戸時代から多くの説が唱えられていて、名前の酒舟石も「酒を造る設備」と考えられて名付けられただけで、実際に酒が造られていたかどうかは不明。1935年の発掘で「庭園の一部」であったという説が登場したものの、現在もまだ謎に包まれています。
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飛鳥寺跡



飛鳥寺は奈良県明日香村にあり、かつての飛鳥京の北部に位置する仏教寺院。『日本書紀』によると、588年に天皇に仕えた蘇我馬子(そがのうまこ、551年?〜626年)が発願し、建立されたもの。蘇我氏は当時の有力な貴族であり、仏教に対しては寛容派で、ここは日本に仏教を広めるための施設でもありました。やがて中国や朝鮮半島から僧を呼び、日本初の本格的寺院となります。
ここは当初から大規模な伽藍(がらん)を持つ寺院として設計されました。中心には巨大な五重塔がある、一塔三金堂式伽藍配置となっていて、今でも当時の遺構が一部残っています。
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橘寺跡



明日香村に位置する同盟の寺院の中にある遺構。創建については聖徳太子であったと伝えられ、「聖徳太子建立七大寺」のひとつとしても有名です。実際の橘寺は考古学的には、7世紀初めにかけて建立されたと考えられていて、8世紀には多くの堂宇を持つ、繁栄した寺院であったとされるもの。
当時の伽藍の構造はさまざまな説があるものの、発掘調査では回廊が金堂と講堂の間に囲まれていた可能性があり、五重塔も存在していたということも分かっています。
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山田寺跡



明日香村に位置する飛鳥時代の寺院遺跡。川原寺は、飛鳥寺(法興寺)、薬師寺、大官大寺(大安寺)と並ぶ飛鳥の重要な寺院の一つです。しかし、その発祥ははっきりとしておらず、『日本書紀』によると天武天皇の時代、673年にはその存在が記されているので、少なくともその時期よりも前に存在したことは確実。一方、6世紀に創建されたという説もあります。
発掘調査によって多くの遺構や仏像の破片、瓦などが発見され、寺院の構造が明らかになりました。特に寺院中央に位置する七重塔の礎石や金堂の基壇、中門、南大門などが見つかっていて、当時の建築技術を垣間見ることができます。
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川原寺跡
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檜隈寺跡



明日香村に位置する飛鳥時代の寺院遺跡。ここは高松塚古墳の南に位置していて、かつては渡来系の東漢氏(やまとのあやうじ)が暮らしていた「檜前(ひのくま)」と呼ばれる地であり、『日本書紀』では688年にその記載があることから、この時期には既に檜隈が存在していたことが分かります。
1969年以降、何度も発掘調査が行われ、当時の伽藍の構造が分かりました。塔跡には礎石があり、講堂跡には基壇が残っていて、土台としての保存状態は良好というのが特徴
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石舞台古墳



明日香村にある巨大な横穴式石室古墳で、読み方は「いしぶたいこふん」。石室の天井に置かれた二つの巨石が「舞台」のように見えるというもの。ここは古墳ではありますが、外を覆っていた封土が剥がされていて、花崗岩で作られた石組みがむき出しになっています。
石室の壁に「馬子墓」の文字が刻まれていることから、これは飛鳥時代の貴族であり、大臣にもなった蘇我馬子(そがのうまこ、不詳〜626年)の墓というのが有力。封土が剥がされた理由もはっきりとはしていませんが、17世紀には既に「石太屋(いしふとや)」と呼ばれていたので、江戸時代には既に現在と同じような状況だったと考えられます。
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菖蒲池古墳



橿原市の南東部にあり、明日香村にほど近い飛鳥時代の古墳。とはいえ、古墳というものの、墳丘はほぼ崩壊しています。2010年の調査によると、ここは一辺約30mの二段の方墳であったことが分かりました。しかし、羨道(えんどう、玄室と外部を結ぶ通路部分)は埋もれてしまっていて、石室の構造すら分からないものの、おそらく花崗岩の巨石を二段に積み上げたものだった様子。
玄室には、2つの家形石棺が縦一列に安置されていて、屋根は棟飾り風に造られていて、当時のものとしては珍しい形状。
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牽牛子塚古墳



橿原市との村境に近い、明日香村の丘陵地帯にある大型古墳。「牽牛子」はアサガオの別称であり、江戸時代から「あさがお塚」とも呼ばれるもの。アサガオの花びらのように八角形の墳丘を持つ特異な形状で、円墳や前方後円墳といった従来の形とは異なるのが特徴です。墳丘は二段構造となっていて、1段目は一辺12.2m、2段目は一辺約7mで、直径30mの古墳。
『日本書紀』では、第37代斉明天皇(594〜661年、第35代皇極天皇)が娘の間人皇女(はしひとのひめみこ、?〜665年)とともに埋葬されたということが記述されていて、この条件が当てはまることからここが斉明天皇陵として有力な場所でもあります。
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藤原宮跡



藤原京は奈良県中央部にある橿原市と明日香村にかかる地域にあった都城(とじょう)。飛鳥時代の694年から都が平城京に移る710年まで使用したのは約16年と短い期間であったものの、ここは唐風の都市計画をモチーフにした日本最初の本格的な都城であり、東西2.1km、南北3.2km程度の長方形の形状で、25平方kmという面積は後に築かれた平城京や平安京よりも広く、古代で最も広大な都であったとされています。
現在の藤原宮跡には、どの建造物も残っておらず、遺構のみとなっています。発掘調査が進められ、宮殿や建物の基礎部分が復元され、朝堂院は日本でも最大規模であり、かつて大極殿(国家的儀式が行われる場所)の遺構も見られます。
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大官大寺跡



橿原市と明日香村にまたがっている飛鳥時代の寺院跡。もともとは飛鳥京と藤原京の間にある遺構がその寺跡だと考えられていましたが、発掘調査の結果、ここは文武天皇(683〜707年)時代のものとされていて、7世紀後半には金堂や九重塔があった広大な寺院であったということが分かりました。
しかし、710年に藤原京から平城京へと遷都されると、711年に火災があったという記録もあり、大官大寺は716年に平城京へと移動し、名前も「大安寺」と改名。現在は遺構だけが残っています。
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本薬師寺跡



橿原市にある飛鳥時代の寺院跡。680年に天武天皇(?〜686年)の勅願(勅命による祈願)により創建され、もともとは病気になった皇后のために建立したと伝えられています。実際に完成したのは、飛鳥から藤原京へと遷都した後で、698年の文武天皇(683〜707年)の時代。
現在は建物は残っておらず、金堂や東塔、西塔の遺構がわずかに残るのみ。ここは奈良市の薬師寺と同じく、入口に中門、中央には仏像が置かれた金堂、その手間の東西に置かれた塔、背後に講堂を配するという「薬師寺伽藍配置」であったとされています。
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野口王墓(天武・持統天皇陵古墳)



明日香村にある古墳。墳丘は現在東西約58m、南北径45m、高さ9mの八角墳となっています。7世紀に建造されたと考えられ、2つの石室があり、ここは第40代の天武天皇の乾漆棺(かんしつかん、漆を重ねて建造した棺)と第41代の持統天皇の骨壷が収められている合同陵とされるもの。
しかし、1235年には盗掘に遭い、副葬品は奪われてしまい、持統天皇の骨壷も奪われ、近くに遺棄されてしまいました。
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中尾山古墳



明日香村にある古墳。丘の上にあり、対辺長約19.5m、高さ4mといった三段構造の八角墳であり、比較的小さな古墳です。とはいえ、八角墳は天皇陵であることが多く、ここは江戸時代には文武天皇(683〜707年)の陵であるという報告もあったほど。
内部は横口式石槨(よこぐちしきせっかく)となっていて、石槨は丁寧に磨かれていて、中央部には火葬した蔵骨器を安置する台があったとされています。しかし、鎌倉時代には既に盗掘にあっていて、骨壷だけでなく、副葬品なども見つかっていません。
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キトラ古墳



明日香村にある古墳の一つ。飛鳥では南西部に位置し、小高い丘である「阿部山」の南斜面に築かれた、二段築成作りの円墳。上段の高さは2.4m、下段の高さは約90cmとそれほど大きくはないものの、1983年に石室内で彩色壁画に玄武が発見され、これは高松塚古墳に次ぐ、日本でも2例目の極彩色壁画。
現在も被葬者は不明となっていますが、古墳そのものは7〜8世紀に建造されたと推測されているため、現在で40代天皇・天武天皇(?〜686年)の皇子や側近の高官と考えられています。
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高松塚古墳



明日香村に位置する7世紀末から8世紀初めにかけて築かれた古墳。飛鳥では南西部に位置し、下段は直径23m、上段は直径18m、高さ5mの二段式の円墳となっています。1972年に「飛鳥美人」として有名な極彩色壁画が発見され、これは日本初の極彩色壁画ということで話題となりました。
被葬者については、天武天皇(?〜686年)の皇子説や臣下説、朝鮮半島系王族説の3つに分かられているものの、ハッキリしないところ。古墳は2005年の発掘調査によって、藤原京期(694~710年)と確定されました。
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世界遺産マニアの結論と感想
日本史における飛鳥時代は日本における国家が形成される時期であったと考えられていて、飛鳥と藤原の宮都は、日本独自の文化と大陸の文化が入った建物が築かれました。現在はほとんどが遺跡になったものの、これらは国家形成における大事な証拠であることが世界遺産としての価値があると考えられています。…古墳以外は「見た目の迫力」がないというだけで分かりづらいかもしれませんが、価値は高いもの。
ちなみに、桜井市には卑弥呼の墓とされる「箸墓古墳(はしはかこふん)」があるのですが、ここは第7代孝霊天皇皇女である「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)」と宮内庁から治定されているため、現段階では世界遺産の後世遺産に含めるのは危険だったのかもしれませんね。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。