カンボジアの世界遺産「アンコール・ワット」とは?その場所と歴史について世界遺産マニアが解説

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登録区分文化遺産
登録基準(1),(2),(3),(4)
登録年1992年

アンコール・ワットは「アンコール遺跡」の構成資産の一つ。アンコール遺跡最大の寺院であり、広大な伽藍と美しい彫刻はクメール建築の傑作でもあります。ところで、アンコール・ワットはなぜ世界遺産なのでしょうか?

ここではアンコール・ワットがなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、アンコール・ワットについて詳しくなること間違なし!

目次

アンコール・ワットとは?遺跡の場所とその意味は?

アンコール・ワット
画像素材:shutterstock

カンボジア北西部のシェムリアップ州の州都シェムリアップ。この町の郊外には、東南アジアで最も有名な遺跡の一つであるアンコール遺跡があります。アンコールとは「都」という意味で、クメール王朝(802〜1431年)時代の王都があった場所。途中で何度か遷都したものの、このエリアは王国の中心地でありました。

遺跡内には数多くの寺院が建造されましたが、最も広大な寺院がアンコール・ワット。クメール語で「アンコール(都)」の「ワット(寺院)」という意味で「国都寺院」であった場所。ここはクメール王朝だけでなく、現在までのカンボジアの象徴でもあります。

アンコール・ワットの歴史は?世界史にどんな影響を与えた?

アンコール・ワット
画像素材:shutterstock

クメール人による王朝は9世紀に開かれ、現在のアンコール遺跡があった場所に都を築くと、歴代の王は即位する度に寺院や城を建設していきました。12世紀前半に即位したスーリヤヴァルマン2世(在位:1113〜1150/2年)の時代は、王朝は最大領土となり、国内には大規模な建造物を多く建造。その中の一つが、アンコール遺跡最大の寺院であるアンコール・ワットです。

ここは30年の歳月をかけて築かれたために、アンコール遺跡でも最大の寺院となりました。彼はヒンドゥー教を深く信仰し、最高神の一人、ヴィシュヌ神を本堂に安置しました。13世紀後半のジャヤーヴァルマン8世(在位:1243〜1295年)の時代に西から続く参道が追加。

アンコール・ワット
画像素材:shutterstock

しかし、1431年にクメール王朝が滅ぶと、一時衰退するもの、16世紀には仏教寺院へと置き換えられ、仏像が多く配されるようになりました。その後もここは仏教寺院として利用され続け、1632年にも日本人参拝客も訪れています。

1860年にフランス人のアンリ・ムーオ(1826〜1861年)がこの地を紹介すると、ヨーロッパでも広く知られるようになりました。しかし、1979年にクメール・ルージュ(政治勢力・武装組織)の支配下になると、ここは内戦により被害を受けてしまいます。しかし、1992年には世界遺産に登録され、遺跡全体が保護されるようになると、内線の弾痕も修復され、当時の輝きを取り戻しました。

アンコール・ワットの伽藍はどんな構造?日本人による落書きがある?

伽藍

壁画/アンコール・ワット
画像素材:shutterstock

敷地は、東西1500m、南北1300m、幅190mの堀に囲まれ、面積は2平方kmの広大な寺院になっています。寺院の構造は、三重の回廊に囲まれた5つの祠堂が並ぶ配置。これはヒンドゥー教における宇宙観を示しています。

5つの祠堂は、神々が住む須弥山(メール山)を示しています。中央には約65mの高さを誇る塔を持ち、ヴィシュヌ神が祀られていたとされているものの、現在は仏像が置いてありますが、これは16世紀に仏教寺院に変更されたという名残。第一回廊には、インドの叙事詩である『マーバーラタ』や『ラーマーヤナ』、建設者であるスーリヤヴァルマン2世の姿などをモチーフにした美しいレリーフが見られます。

日本人による落書き

アンコール・ワット
画像素材:shutterstock

17世紀になると、朱印船貿易で日本人は東南アジアへと進出しました。多くの日本人がアンコール・ワットを訪れ、各所に墨書(ぼくしょ)が残されていますが、その中でも有名なのは平戸藩士だった森本一房(かずふさ)のもの。彼は第一回廊と第二回廊の間にある北経堂に12行にも渡って落書きをしました。

とはいえ、その内容は、当時の日本人がここをインドの祇園精舎(釈迦が説法を行った場所)と勘違いしていて、彼は「年老いた母の後生を祈念するために4体の仏像を奉納した」といった内容もあり、実は信心深い人物であったということが分かるというもの。

アンコール・ワットは意外と怖い?その呪いとは?

アンコール・ワット
画像素材:shutterstock

アンリー・ムーオは博物学者で、さまざまな伝説を記していますが、この地に残る伝説は、ジャングルには幽霊が住んでいて、魔法にかけられた都があり、神の呪いにかかっている…というもの。そして、しかし、これはインドシナ半島ではありふれた伝説であった様子。

実際に彼の著作では、アンコール・ワットはジャングルに埋もれた謎の遺跡のような描写であったものの、現地で暮らしていたクメール族はもとからその存在を知っており、当時ですら廃墟ではなく、寺院として活動していました。それもあり「呪い」の演出として誇張されたのかもしれませんね。

アンコール・ワットはどんな理由で世界遺産に登録されているの?

アンコール・ワット
画像素材:shutterstock

アンコール・ワットが評価されたのが、以下の点。

登録基準(i)
アンコール遺跡は、アンコールワット、バイヨン寺院、パンテアイ・スレイなど、9〜15世紀までのクメール美術の傑作が見られるということ。

登録基準(ii)
アンコールで発展したクメール美術は、東南アジア全域で影響を与え、各地で独自に発展していったという点。

登録基準(iii)
密林に残る遺跡は9〜15世紀に東南アジアの大部分を支配したクメール王朝の存在を示しているということ。

登録基準(iv)
クメール様式の建築は、各地で独特の進化を遂げ、結果的に東南アジアの建築と美術の新しい様式を生み出していったということ。

世界遺産マニアの結論と感想

アンコール・ワットは、インドシア半島一帯を支配したクメール朝の存在を示す証拠であり、そのクメール王朝の建築様式は、東南アジアの国々の建築物に大きな影響を与えていったという点で評価されています。

ちなみに、1999年の映画『地雷を踏んだらサヨウナラ』という映画では、カンボジア内戦時(1970〜1975年)、戦場カメラマン・ジャーナリストの一ノ瀬泰造がクメール・ルージュが占領しているアンコール・ワットを見るために潜入して死亡してしまうという内容。これは実話をモチーフにした作品で、彼の遺骨は1982年に近くの村で発見され、結果的に処刑されたことが分かりました。現在は村人が建てた墓もあり、日本人にとっては悲しいけど、ちょっと有名な観光スポットとなっています。

※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。

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この記事を書いた人

世界遺産一筋20年以上!遺跡を求めて世界を縦横無尽で駆け抜ける、生粋の世界遺産マニアです。そんな「世界遺産マニア」が運営するこちらのサイトは1100以上もある遺産の徹底紹介からおもしろネタまで語り尽くすサイト。世界遺産検定一級取得済。

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