登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (1), (2), (3), (4), (6) |
登録年 | 1987年 |
パルテノン神殿は「アテネのアクロポリス」の構成資産の一つ。アクロポリスの中でも最も重要な神殿であり、ドーリア式建造物の傑作で、ほとんどが略奪されましたが、装飾彫刻はギリシャ美術の頂点にあったもの。ところで、パルテノン神殿はなぜ世界遺産なのでしょうか?
ここではパルテノン神殿がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、 パルテノン神殿について詳しくなること間違いなし!
パルテノン神殿とは?場所はどこにある?
首都アテネには、イッソス川の渓谷に標高156mの石灰岩の丘があり、頂上に立つ建造物は古代ギリシャから現在までその姿を残すものです。丘の上は「アクロポリス」と呼ばれ、これは「高い丘にある都市」というような意味を持つもの。6世紀にはアテネの守護神である女神アテナの神殿を中心とした聖域へと発展。
パルテノン神殿は、紀元前447〜438年にはアテネの守護神・女神アテナを祀る神殿として、ペルシャ戦争の英雄、将軍ペリクレス(紀元前495年?〜紀元前429年)が彫刻家ペイディアスに依頼して建造。「パルテノン」という名称はさまざまな説がありますが、「乙女」や「処女」などを意味し、アテナの信仰と関連性があるという説もあります。内部には巨大なアテナ像が置かれ、アテネという都市の威信を示す役割を持つように。
ヘレニズム時代は保護されましたが、ローマ時代以降は破壊されることもあり、6〜7世紀にはキリスト教会堂となったために内部も改築されてしまいます。15世紀以降はオスマン帝国によってモスクとして利用され、ミナレットも加えられました。さらに17世紀には弾薬の貯蔵庫となり、当時のヴェネツィア共和国軍によって大幅に破壊。
19世紀にコンスタンティノープル(現イスタンブール)のイギリスの大使であったエルギン伯トマス・ブルースによって、神殿の屋根の周りを囲んだ破風彫刻が持ち運ばれたため、アテネにほとんど残っていません。これらは「エルギン・マーブル(パルテノン・マーブル)」と呼ばれ、大英博物館に展示されています。
パルテノン神殿の円柱には秘密がある?
神殿の基盤は長さ約70m、幅は約31m。外周には高さ10.4mのドーリア式の円柱が46本、内部には19本配置。シンプルなドーリア式の円柱が使われているものの、一部はイオニア式の建築様式なども見られます。
神殿の円柱の特徴としては「エンタシス」であるということ。これは円柱の下部から上部にかけて膨らんでいき、徐々に細くなるもので、柱の下から上を眺めると真っ直ぐになるという効果があり、現在の建築法にも見られます。日本では、奈良の法隆寺の西伽藍でも採用されていることでも有名。
パルテノン神殿はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
パルテノン神殿が評価されたのが、以下の点。
登録基準(i)
自然環境を利用して形成されたアクロポリスは紀元前5世紀のアテネが繁栄した時代の傑作を残しつつ、丘の上の景観を作り出しているという点。
登録基準(ii)
アクロポリスの建造物は、ギリシャ・ローマだけではなく、現在でも新古典主義様式にもモチーフとして影響を与えているということ。
登録基準(iii)
アクロポリスの神殿などは、ギリシャの人々が信仰していた宗教の存在を証明しているという点。
登録基準(iv)
アクロポリスは、紀元前16世紀〜12世紀のミケーネ文明時代の城壁や紀元前5世紀に建造された神殿など、紀元前16世紀以降の建築の発展の歴史が見られるということ。
登録基準(vi)
ここにはソクラテスやプラトンなどの哲学者、建築家、芸術家、政治家などが多く活躍し、世界史における重要な出来事の舞台となったということ。
世界遺産マニアの結論と感想
パルテノン神殿は、アクロポリスを中心としたアテネの繁栄が見られる建築物の中でも傑作であり、かつてのギリシャ人の信仰が今に伝わっていて、近代以降になっても建築様式でも影響を与え続けているという点で評価されています。
ちなみに、パルテノン神殿は聖域という役割だけでなく、金庫という役割もあったのです。というのも、アテネはデロス同盟という都市国家同盟の盟主だったため、一応デロス島に会議の場があったのですが、実態はアテネの支配権が強く、やがてアテネへと移転してしまったというわけ。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。