登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (1), (2), (4) |
登録年 | 1982年(2009年拡大) |
フランス東部に位置するアル=ケ=スナンの王立製塩所は、王室建築家クロード・ニコラ・ルドゥによって18世紀に設計され、円形に施設を配置して効率化を目指した革新的なデザインで後の工業都市のモデルになったもの。南東にあるサラン=レ=バンの大製塩所は中世以前に設立された歴史の深い製塩所で、塩分濃度の高い地下水を利用して塩が採掘され、1962年に閉鎖するまで1200年に渡って稼働していました。
ここではサラン=レ=バンの大製塩所からアル=ケ=スナンの王立製塩所までの煎熬塩の生産がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、サラン=レ=バンの大製塩所とアル=ケ=スナンの王立製塩所について詳しくなること間違いなし!
サラン=レ=バンの大製塩所からアル=ケ=スナンの王立製塩所までの煎熬塩の生産とは?
アル=ケ=スナンの王立製塩所
フランス東部のドゥー県に位置するアル=ケ=スナンには、1982年に世界遺産に登録された製塩所があります。製塩所はアルクとスナンという2つの村が合併し、ブルボン朝のルイ16世の時代の1775年に王室建築家クロード・ニコラ・ルドゥ(1736〜1806年)によって設立。ここが選ばれたのは当時の王領であったショーの森があったことから、薪を容易に運用できるというのが理由でもありました。
彼は啓蒙主義の理想をこの製塩所のデザインで実現し、製塩所の関連施設、病院、聖堂など、それぞれを円形に配置することで合理的な労働組織を作り出すという狙いがありました。最終的には円形ではなく、半円形となり、生産する食塩は不純物が多かったり、周囲に塩害が発生したりしたために1895年には操業を停止しました。しかし、これは産業革命前の産業施設として、その後の産業建築のモデルともなりました。
サラン=レ=バンの大製塩所
2009年に拡大登録されたサラン・レ・バン製塩所はその歴史は中世以前に遡り、1962年に活動を停止するまで、少なくとも1200年もの歴史を誇るもの。サラン・レ・バンの近郊の地下水は塩分濃度が高く、中世以前は貯水槽に地下水を入れて薪を燃やして蒸発させるという方法が採用されていました。地下水は21km離れていてるアル=ケ=スナンの王立製塩所までは木製のパイプを使って供給されるほど。
ここには19世紀の油圧ポンプを含む13世紀に建造された地下回廊があり、敷地内には蒸留鍋や貯蔵室、井戸、住宅などが残っています。
サラン=レ=バンの大製塩所からアル=ケ=スナンの王立製塩所までの煎熬塩の生産はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
サラン=レ=バンの大製塩所とアル=ケ=スナンの王立製塩所が評価されたのが、以下の点。
登録基準(i)
アル=ケ=スナンの王立製塩所は、作業所として設計されたフランス初の産業施設であり、工場建築におけるモデルともなったもの。ここはクロード・ニコラ・ルディーによる理想都市でもあり、最終的には未完成で終わりましたが、そのユートピア的な建築物は後に影響を与えたという点。
登録基準(ii)
アル=ケ=スナンの王立製塩所は、18世紀末におけるヨーロッパの産業社会の誕生を示し、ヨーロッパの啓蒙主義時代の中でも特にその哲学が施された完璧な作品でもあり、半世紀後に増加する産業建築の幕開け的な存在であるということ。
登録基準(iv)
サラン=レ=バンの大製塩所は、少なくとも中世以降、地下の塩水をポンプで組み上げ、それを火で炙って結晶化することで塩を抽出・生産するという技術が見られる建造物であり、ここは19〜20世紀まで利用されていたという点。
世界遺産マニアの結論と感想
中世以降に窯を使って塩を抽出するという伝統的な塩の生産技術が見られるサラン=レ=バンの大製塩所。フランスの啓蒙主義の時代に実現された理想的なデザインのアル=ケ=スナンの王立製塩所は、ヨーロッパの産業建築のモデルとなり、これらは後に産業革命期に建造される工場建築に影響を与えたという点で評価されています。
ちなみに、クロード・ニコラ・ルドゥーはかなり自由奔放なデザインを設計していて、この時代に既に球体の家などを考案していました。しかし、彼の作品はあまり実現されることもなく、「革命建築」と呼ばれてしまったほど。もう少し生まれるのが遅ければ、もっと有名になっていたかもしれませんね。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。