登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (2), (3), (5), (6) |
登録年 | 2014年 |
シルクロードとは、中国の中心から天山回廊を通り中央アジアまで結ぶ交易路の総称です。そのシルクロードの一部である約5000kmが世界遺産に登録されていて、交易路を含む33の構成資産が登録。ここは紀元前2世紀から紀元16世紀まで交易で栄え、シルクロード沿いの遺跡には人々の暮らしや文化交流の足跡などが今でも残っています。
ここでは、シルクロード:長安-天山回廊の交易路網がなぜ世界遺産なのか、その意味と歴史を含めて世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、シルクロードについて詳しくなること間違いなし!
シルクロード:長安-天山回廊の交易路網とは?その意味と歴史は?
どこからどこまでがシルクロードなの?
まず、シルクロードとは、ドイツの地理学者フェルディナント・フォン・リヒトホーフェンによって名付けられたもので、一本の道を示すものではなく、古くから使用されてきた交易路の「総称」としてこの名称を使用したのです。そして、絹(シルク)が交易品として多かったことから「シルクロード」になったというのが理由。
その範囲は専門家によって異なるのですが、東端は中国の長安もしくは洛陽、ヨーロッパ側はシリアのアンティオキアやイタリアのローマという説もありますが、あくまでも考え方次第なわけです。
シルクロードの範囲としては、東アジア〜中央アジア〜西アジア間を古代から相互接続するネットワークであり、そして、その道は時代とともに変化。長さも時代とともに変化するのですが、合計で約8700kmまでにもなるという世界でも有数のネットワークです。
これらの交易路は紀元前2世紀〜紀元1世紀に形成されたとされ、16世紀まで交易路として使用されてきました。この道を利用したのはキャラバンで、都市から都市へと荷物を届け、また別のキャラバンが荷物を届けるという中継貿易が行われたということが特徴。特に高級品が主な交易品で、それと同時にここを行き来する人々によって文化と宗教、学問などの交流が行われました。そして、その交易路には宮殿や石窟寺院、要塞、宗教施設など、さまざまな施設が作られ、これらは構成資産として登録。
シルクロードと一口で行っても実は大きく分けて3つのルートがあります。
草原の道
最も北側に位置する交易路で、中国からモンゴルと中央アジアの草原地帯を通り、黒海の北側を通り、東ヨーロッパを抜ける道。
オアシスの道
これは中国の長安から敦煌を通る、現在のウイグル自治区を中心に構成され、天山山脈を越え、中央アジアに抜けてトルコがあるアナトリア半島を繋ぐというもの。敦煌から先は3つに分かれ、タクラマカン砂漠の南を通るルートや天山山脈の南側を通るルート、天山山脈の北側を通るルートに分かれています。
世界遺産に登録されているのは、このオアシスの道の一部。そして、リヒトホーフェンが示す「シルクロード」は、このオアシスの道を指しています。
海の道(海のシルクロード)
中国から南へ船で抜け、東シナ海、南シナ海、マレー半島を回って、南アジア沿岸を通り、アラビア半島から紅海へ入ってからは陸路でヨーロッパへ。実は古代ローマ時代からこの航路は利用されていて、7世紀にはイスラム商人が利用するようになりました。
登録されている主な構成資産
構成資産は、中国の東部にある中原地区、中国の中央部の河西回廊地区、中国西部の天山北路・天山南路地区、カザフスタンとキリギスの東部であるジェティ・ス地区の4つで分かれています。その数は33もあるので、代表的なものを紹介しましょう。
大雁塔/中原地区
かつての唐の首都であった長安(現在の西安)にあり、『西遊記』でおなじみの玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典や仏像などを保存するために建造した塔。7世紀に建造された塔ですが、現在見られるものは16世紀に修復工事されたもの。各階に、釈迦の遺骨を納めたとされる仏舎利が保管されています。
玉門関/河西回廊地区
甘粛省敦煌市にあり、シルクロードの分岐点であった敦煌の郊外に築かれた関所。ここはシルクロードの北ルートにおいて重要な関所で、現在残るのは唐代に建造されたもの。しかし、宋の時代になると衰退。現在は遺跡となっています。
交河故城/天山北路・天山南路地区
ウイグル自治区のトルファン市の郊外に位置する都市遺跡。ここは紀元前2世紀〜紀元5世紀までオアシスの都市国家であった車師の都だった場所で、唐の支配下に置かれたり、天山ウイグル王国に属したりしていました。14世紀には破壊され、現在は遺跡となっています。広大な範囲の遺跡で、北部には101の仏塔が整然と並べられていて、これらはかつての繁栄した姿を彷彿とさせるもの。
ベラサグン/ジェティ・ス地区
現在のキルギスのチュイ州に位置する遺跡。ここは7〜9世紀にペルシャ系の民族であったソグド人によって建造され、14世紀に滅ぼされるまで、交易で栄えたカラハン朝や西遼の中心都市として活躍しました。現在は遺跡となっていますが、11世紀に建造されたモスクのミナレットであったブラナの塔は、かつて46mもの高さがあったとされています(現在は24mだけ現存)。
シルクロード:長安-天山回廊の交易路網はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
シルクロードが評価されたのが、以下の点。
登録基準(ii)
シルクロードという広いネットワークは、ユーラシア大陸のさまざな文化が交差し、遊牧民と農耕民族が交流して、建築や都市計画、宗教、生活様式など、さまざまな点で影響を与えたということ。
登録基準(iii)
シルクロードが栄えることで、紀元前2世紀〜紀元16世紀までのユーラシア大陸全体の経済と文化が活性化し、景観を大きく変えていったという点。
登録基準(v)
乾燥地帯のため、交易によって井戸や水路などの知識が持ち込まれ、都市や農地の開発がされていったということ。
登録基準(vi)
シルクロードによって、中国へに仏教とネストリウス派のキリスト教が普及され、他にもマニ教、ゾロアスター教、イスラム教の拡大はシルクロードによるものであったという点。
世界遺産マニアの結論と感想
「シルクロード」という名前の世界遺産でありますが、交易路だけでなく、シルクロードの交易で栄えた都市や関連設備なども登録されているのが特徴的。交易路が繁栄すればするほど、都市交流が盛んになり、それは建築技術や都市開発、宗教なども含めて発展していったという点で評価されています。
ちなみに、シルクロードの東端は長安や洛陽が挙げられることが多いですが、日本だと奈良の正倉院の影響か「奈良こそがシルクロードの東の最果て」と考える人もいるようです。このように「シルクロードはどこからどこまでなの?」という問題は個人によって定義が異なるので、正直結論が出ないと思われます。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。