長崎県は九州でも最も西側に位置し、古来から外国との交流が多い地で、江戸時代は長崎市に出島が置かれるほど。それもあり、日本でも海外の文化がイチ早く入るエリアでもあり、明治時代になると造船・鉄鋼・炭鉱などの産業も発展。最近人気の軍艦島も世界遺産として有名ですが、長崎県の世界遺産はいくつあるでしょうか?
ここでは、長崎県の世界遺産を世界遺産マニアが一覧にして分かりやすく解説。それぞれの遺産を簡潔に解説していきましょう。
明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業
小菅修船場跡/長崎市
長崎県長崎市小菅町にあるドック跡。ここには日本初のレンガ造りの機械室(曳揚げ小屋)や英国製の巻き上げ機などがあり、日本で初めて実装された蒸気機関でもあります。ここの船台式ドックは、現在主流の乾ドックとは違い、海上から入江まで軌条に乗せた船台を移動させ、巻き上げ機に繋がったロープで陸上まで引き上げるという仕組み。
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三菱長崎造船所 第三船渠/長崎市
長崎県長崎市は現在でも三菱重工業の長崎造船所があり、主力の造船所があることから、明治からそのまま使用されている造船所の一部が世界遺産に登録。かつては3つのドックを保有していましたが、1905年に竣工した大型ドックで、全長222.2mとアジアの最大規模だった「第三船渠」だけが現存。
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三菱長崎造船所 占勝閣/長崎市
造船所の敷地でも第三船渠の隣にある木造の洋館は、1904年建造の当時の所長・荘田平五郎の邸宅として建造されました。しかし、邸宅としては使用されず、迎賓館として現在まで利用されています。
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三菱長崎造船所 ジャイアント・カンチレバークレーン/長崎市
造船所の北部にあるジャイアント・カンチレバークレーンは、1909年から導入された日本初の大型カンチレバークレーンで今でも現役で稼働しています。これは電動モーターで動き、大きな装備品を釣り上げるために使用され、今でも蒸気タービンや船舶用のプロペラなど、大型の機械を運ぶ際に利用。
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三菱長崎造船所 旧木型場/長崎市
造船所の北側に位置する木型場は、鋳造用の木製鋳型を作る工場として1898年に建造されたもの。ここは造船所の最も古い建造物で、現存する木型場としては最古のものでもあります。1915年には増築されたものの、鉄骨造のトラス組みは今でも現存。
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高島炭鉱/長崎市
長崎半島の沖合に浮かぶ島で、面積は1.23平方kmと小さい島なのですが、江戸時代初期に石炭が発見されると、明治時代初期にトーマス・グラバーによって本格的な炭鉱が建造されます。後に三菱の経営となり、日本のエネルギーを支え続け、1986年に閉山。
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端島炭鉱(軍艦島)/長崎市
高島から約2.5kmの位置する小さな島。ここは江戸時代後期に石炭が発見されると、佐賀藩の領地となるものの、明治時代に三菱が買取り、3つもの海底坑道が建造され、一時は高島炭鉱よりも出炭量が多かった時期があるほど。
炭鉱が繁栄すればするほどに労働者が増えていき、島内には高層アパートが建造されていきました。しかし、1960年代になると、エネルギーは石炭から石油へ移行し、1974年に閉山。その後は長らく三菱マテリアルが所有していましたが、ここは解体はされずにそのまま廃墟になったために廃墟ブームの影響で人気観光スポットに。
実は世界遺産としては島の廃墟は登録されておらず、岸壁と海底坑道のみ登録されています。
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旧グラバー住宅/長崎市
長崎市内にある南山手の丘にある旧グラバー住宅は、スコットランドの実業家トーマス・グラバー(1838〜1911年)がかつて暮らしていた邸宅。
ここは1863年頃に建造されたとされる日本最古の木造の洋風建築です。玄関はなく、室内へはベランダから直接入るというのが特徴。洋風の邸宅なのに日本の瓦や土壁が使用された独特の建造物で、T字形の複雑な構造となっています。
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長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産
原城跡/南島原市
島原半島の南部にある原城は、1496年に有馬氏の当主によって建造されると、1616年には新たに赴任された松倉重政によって廃城となります。島原の乱(1637〜1638年)が発生すると、一揆を起こした農民たちがここで立てこもり、天草四郎を総大将として激しい戦闘を繰り広げ、その際に掘や土塁などが築かれました。
しかし、最終的にはここに立てこもった3万7000もの人々は皆殺しにされました。1990年から発掘が始まり、大量の人骨や十字架やロザリオなどのキリスタンの信心具(しんしんぐ)が見つかり、石垣や城門、櫓などの遺構があったことから、堅固な城であったことが分かっています。
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春日集落と安満岳、中江ノ島/平戸市
北松浦半島の西側に浮かぶ島で、ここは古来より寄港地として利用されていて、16世紀にはイエズス会の宣教師によってキリスト教の布教の拠点となるものの、各国の商館は長崎へと移転して、ここはキリスト教の弾圧の場となりました。
登録されているのは、潜伏キリシタンが棚田を切り開いたという、島の北西部にある「春日集落」。他にも「安満岳(やすまんだけ)」も登録されていて、ここは山岳信仰の中心地でしたが、山頂にある石塔が信仰対象とされていました。近くに浮かぶ「中江ノ島」は、17世紀前半にキリスタンの処刑が行われたこともあり、ここは島そのものがキリスト教へと結びつき、聖地となりました。
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外海の出津集落/長崎市
西彼杵(にしそのぎ)半島の南西部にあり、現在は長崎県外海(そとめ)町にありますが、今でも小平集落と呼ばれます。ここはリアス式海岸沿いに築かれたため、キリシタンが隠れ住むのにうってつけでした。集落は河岸段丘にあり、石積みによって建造物や段々畑が作られ、人々は漁業などをして暮らしていました。1909年に完成した出津教会堂も世界遺産に登録。
住民は古くから聖画像を拝み、日本語の教義書などもあり、独自の信仰が続けられ、この住民たちが五島列島へと移住したためにこの地の教義が島へと持ち込まれたとされています。
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外海の大野集落/長崎市
出津集落よりもさらに奥にあり、半島のほぼ中央、大野岳の麓に位置します。ここは佐賀藩の飛び地であったことから潜伏キリシタンが暮らすのに適していて、仏教徒と偽ったり、神社にて神道を装いながらここを祈りの場として信仰が続けられていきました。
1893年に竣工した大野教会堂は、重要文化財にも登録されていて、これらを含めた景観が世界遺産に登録。
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黒島の集落/佐世保市
北松浦半島の南西に位置する島で、周囲の九十九島の中でも最大の面積を誇る島。戦国時代にキリスト教が伝わるものの、江戸時代になると牧場が置かれ、平戸藩の領地となりました。19世紀前半になると、大村藩のキリシタン達がこの地で移住し、田畑を開梱しつつ、仏教寺院で信仰が続けられていきます。
その後「信徒告白」の後、引き続きキリシタンたちが暮らし、1897年から黒島天主堂を建設。ここはロマネスク様式の外観であり、三廊式のバシリカとなっていて、保存状態も良好野ため、世界遺産にも登録されています。
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野崎島の集落跡/北松浦郡小値賀町
野崎島は、五島列島の北東部にある7.36平方kmの小さな島。野首集落は古くから神道が盛んな地で、19世紀から潜伏キリシタンが暮らすようになると、神道の氏子として信仰が続けられました。
島の中央部にある旧野首教会は、1907年に周囲の野首地区に住む住民たちが費用を出し、1908年に完成。高度経済成長期以降は、島民が激減し、現在は無人島となったため、教会としては使用されていませんが、県の指定有形文化財として保護されています。
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頭ヶ島の集落/南松浦郡新上五島町
頭ヶ島は、五島列島の中通島の東側に浮かぶ1.88平方kmの島。ここは病人の療養地であったため、19世紀に外海から訪れた潜伏キリシタンがここに移住し、仏教の開拓指導者に従って暮らしていました。
カトリックに復帰した島民たちは、19世紀末に木造の聖堂を建設し、その後、現在の頭ヶ島天主堂を1910〜1919年にかけて建造しました。ここはカトリック教徒によって築かれたために、現在はカトリック教会に属しています。
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久賀島の集落/五島市
久賀島は、五島列島の中でも3番目に大きな島で、8世紀から記録が残るほどに歴史の深い場所。16世紀にイエズス会によって布教が進められ、信者が増えるものの、一度途絶えてしまいます。18世紀後半になると、大村藩による潜伏キリスタンの移住計画によって、各地に入植し、明治時代には「五島崩れ」と呼ばれるキリシタンの摘発事件が起こるほどに信者が多く住んでいました。
その後、信教の自由が認められ、1881年にはカトリック浜脇教会が完成し。1931年に浜脇教会は廃することになり、旧教会堂を解体し、その資材から現在の「旧五輪教会堂」が建設されました。これは五島列島でも最古の教会で、世界遺産に登録されています。
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奈留島の江上集落/五島市
奈留島は、五島列島の中でもほぼ中央部に位置する島。18世紀に外海から潜伏キリシタンが移住し、彼らが暮らした江上集落は島西部の山々に囲まれた湾に面していたため、狭い谷間を開墾しながら開発したもの。
1881年には当時住んでいた4つの家族がカトリック教会に復帰し、その後は人口も増加したこともあり、1918年に現在の江上天主堂が建造されました。
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大浦天主堂/長崎市
長崎市にあるカトリックの教会堂。ここは1597年に豊臣秀吉によって長崎で磔刑された26人のカトリック信者に捧げられ、彼らが殉教した地に向けて建てられたもの。
19世紀後半に日本が開国されたということもあり、フランスから派遣された宣教師ルイ・テオドル・フューレによって設計され、プティジャン神父に引き継がれると1864年に完成。これは日本に現存する最古のキリスト教の建造物でもあります。1865年に司祭となったプティジャンは、ここで「信徒発見」をしたことで有名で、当時のローマ教皇ピオ9世にもこのニュースが伝えられたほど。1953年には洋風建築としては、初めて国宝となりました。
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世界遺産マニアの結論と感想
長崎県の世界遺産としては2件ではありますが、構成資産として数えるとなんと24箇所も登録されています。人気の観光スポットの軍艦島だけでなく、教会から産業遺産まで幅広いジャンルの遺産があるのが魅力です!ぜひディープに楽しんでくださいね。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。