登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (2), (3), (5) |
登録年 | 2007年 |
島根県にある石見銀山といえば、かつて日本最大の銀山であり、世界文化遺産に登録されていることで有名ですね。ところで、石見銀山はなぜ世界遺産に登録されているのでしょうか?意外と知ってそうで知らない!
ここでは、石見銀山遺跡とその文化的景観がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、石見銀山について詳しくなること間違いなし!
世界遺産・石見銀山遺跡とその文化的景観とは?なぜ評価されたのかを簡単に解説!
島根県大田市にある石見銀山は、戦国時代後期から江戸時代前期まで繁栄した日本最大の銀山の跡地。ここは1526年に銀脈が発見されると、博多の豪商・神屋寿禎(じゅてい)によって開発が進められ、この地方の領主・大友氏の保護もあり、彼は1533年に海外から持ち込まれた精錬技術「灰吹法」を導入しました。これは鉱石を鉛で溶かして銀を取り出すという製法で効率的に銀を産出することが可能になったのです。近くにあった港町・鞆ヶ浦(ともがうら)から銀を博多に送り、中国や朝鮮半島との交易で大いに繁栄しました。
その後、1560年代に毛利氏が銀などの運搬を担う街道を整備し、やがて江戸幕府を開いた徳川家康が、奉行として大久保長安を派遣し、銀山経営の拠点となった「大森地区」を設立。1620〜1640年には年間で約40tもの銀が生産され、これは世界で産出する銀の3分の1というほどでした。しかし、江戸時代後期になると銀の産出量は減り、明治維新後の1869年に民間に売却されると、1923年には休山。
現在の石見銀山は、標高600mもの山々の間の渓谷沿いに遺跡が残っていいます。ここは銀鉱山跡と鉱山町、街道(石見銀山街道)、港と港町の3つのカテゴリーに分けられていて、14もの構成資産が点在。
「銀鉱山跡」には「間歩(まぶ)」と呼ばれる600もの坑道が残っていて、人々が暮らした「鉱山町」や石見城跡などの山城も残ります。「街道」は銀山から銀を運ぶルートである鞆ヶ浦道と温泉津沖泊道が登録。「港と港町」は、鞆ヶ浦と沖泊(おきどまり)の2つの港、温泉街である温泉津(ゆのつ)も含まれています。周囲は19世紀まで銀の生産と人々の生活のために、薪炭材として使用された森林も残っていて、銀の採掘のために土地利用しながら発展してきたという文化的景観となっているのが特徴。
石見銀山遺跡とその文化的景観はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
石見銀山遺跡が評価されたのは?以下の点。
登録基準(ii)
16世紀〜17世紀初頭の大航海時代に、石見銀山における銀の大量生産によって、日本と東アジア、ヨーロッパの国々との交易から文化的交流が生まれたという点。
登録基準(iii)
日本における金属の採掘と生産の技術革新は、採掘から精錬までの一連の労働集約型経営による運営形態の進化がもたらされました。江戸時代の日本は鎖国していたために、政治と経済が孤立していた中、ヨーロッパの産業革命によって開発された技術の導入が防がれ、やがて銀鉱山が枯渇すると休山。よって、ここは19世紀後半まで伝統的建築物が残り、保存状態も良好であるということ。
登録基準(v)
石見銀山には、保存状態が良い鉱山、製錬所、輸送路、港湾施設の遺構が森の中に多く残り、銀の生産に関連した集落も含まれ、歴史的な土地利用の証拠が見られるという点。
の3つ。つまり、
「戦国時代後期から江戸時代前半まで、ヨーロッパの大航海時代と重なり、文化交流が生まれた一方、江戸時代になると鎖国のために日本は孤立すると、西洋の技術は入ってくることはなく、技術革新により採掘から精錬までの小規模な労働集約型経営の発展が見られ、そういった背景もあって保存状態の良い鉱山遺跡が残り、今も歴史的土地利用が見られる」
ということですね。
登録されているのは、大きく分けると、以下の3つのエリア。
・銀鉱山跡と鉱山町
・街道
・港と港町
それでは、ひとつひとつ解説していきましょう。
石見銀山遺跡とその文化的景観の構成資産をご紹介
1、銀山柵内(さくのうち)/銀鉱山跡と鉱山町
一般的な銀鉱山のイメージであるエリアで、ここでは鉄鉱石の採掘から精錬まで、銀生産の一連の行程が行われました。ここは龍源寺間歩や大久保間歩などを代表に600ほどの坑道が確認されていて、特に龍源寺間歩は江戸時代中期に建造され、良質の鉄鉱石が多く掘られた坑道です。
銀山柵内のこちら↓
2、大森銀山/銀鉱山跡と鉱山町
銀山柵内の北側に広がる重要伝統的建造物群保存地区。ここは伝統的な木造建築が広がり、南側の銀山地区と北側の大森地区の2つに分かれています。大森地区には、かつてこの地を治めていた代官の住まいであった代官所跡(現・石見銀山資料館)もあり、当時の暮らしが分かるというもの。
詳細はこちら↓
3、熊谷家住宅/銀鉱山跡と鉱山町
大森地区にある19世紀に建造された熊谷家の邸宅。熊谷家は、代官の掛屋(両替商)と御用達(御用商人)を兼ねていた家柄で、主屋といくつかの蔵が今でも残っています。
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4、鞆ヶ浦道・温泉津沖泊道/街道(石見銀山街道)
石見岐山で産出された銀などを陸路で結ぶ通路。世界遺産としては、大森から鯛の浦へ結ぶ「鞆ヶ浦道」、大森から西田集落を中継地として温泉津と沖泊へと結ぶ「温泉津沖泊道」の2つが登録されています。これらは16世紀後半から利用されていて、石段や側溝だけでなく、石切場の跡も残存。
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5、鞆ヶ浦、沖泊、温泉津(ゆのつ)/港と港町
大田市仁摩町にある「鞆ヶ浦」は16世紀後半に開発された港で、ここから銀を博多へと積み込み、世界へと輸出していました。奥行きが約100m、幅は約30mの入江で、当時は日本海側の最大の港であった場所でもあります。
大田市温泉津町にある「沖泊」はリアス式海岸沿いの谷状の地形で、こちらも16世紀後半に城と港が築かれていて、江戸時代は大いに繁栄した港。「温泉津」は古くからの温泉街である一方、港町でもあり、ここからも銀を積み込み、輸送していました。
世界遺産マニアの結論と感想
石見銀山は、戦国時代後半から開発され、東アジアとヨーロッパと交易し、文化交流が生まれた一方、江戸時代になると鎖国されたために、この地では採掘から精錬まで一連の経営が独自に発展していきました。19世紀には衰退したために、山々に囲まれた銀山に関連する遺構や建築物の保存状態が良好であるという点で評価されています。
ちなみに、この地には処刑場があり「石ころ一つでも持ち出したら処刑」という恐ろしい伝承があるのですが、代官であった大久保長安は庶民には厳しい戒律を敷いた一方、裏では私的な財産を蓄えたとされています。彼の死後、「不正蓄財」の罪で彼の息子たちはほぼ全員切腹になったという、なんともしょうもないエピソードもあります。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。