登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (3) |
登録年 | 2018年 |
長崎県と熊本県には、この地に根付いた潜伏キリシタンにまつわる多くの遺産が多く点在。これらは「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として世界文化遺産に登録されていますが、なぜ評価されているのでしょうか?意外と知ってそうで知らない!
ここでは、長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、潜伏キリシタン関連遺産について詳しくなること間違いなし!
世界遺産・長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産とは?なぜ評価されたのかを簡単に解説!
世界遺産としては、長崎県と熊本県にまたがる10の集落と1つの城跡、聖堂を合わせて12の遺産で構成されていて、これらは4つの時代に分けられています。日本の遺産としては、初めてユネスコの諮問機関である「ICOMOS」とアドバイザー契約を結びました。推薦書も合同で作成していったために、スムーズに登録できたという経緯もあります。
1、宣教師の不在と潜伏キリシタンの始まり
1549年にイエズス会のフランシス・ザビエルによって日本にキリスト教が伝道され、平戸を拠点に拡大するものの、豊臣秀吉と徳川家康によって信仰が禁止されてしまいます。その中でもこのエリアでは、密かに拡大していき、1637年に島原半島と天草で一揆が発生したことから「島原の乱」が始まり、多くの犠牲者を出すことになりました。当時の主戦場が島原半島南部の「原城」で、激戦の跡が発掘物から見られます。
1639年には幕府によって鎖国(海禁体制)が始まり、1644年に最後の宣教師であった小西マンショが殉教したことから、信徒たちは表向きは仏教や神道を信仰してるように見せ、「潜伏」しながら信仰を続けるという「潜伏キリシタン」が誕生します。
2、潜伏キリシタンの共同体の形成
17世紀中期〜18世紀末まで、潜伏キリシタン達は、仏教徒や神道の信者となり、信仰を続けるために共同体の中の儀礼や行事などにキリスト教を組み込んでいきました。
例えば、熊本県西部の「天草の崎津(さきつ)集落」や長崎県西部の「外海の出津(しつ)集落」では、身近なものをキリスト教由来の信心具(しんじんぐ)として利用したり、「外海の大野集落」では、神社を密かに唯一神デウスとして崇拝していたりしていました。
3、潜伏キリシタンの共同体の維持、拡大
18世紀末になると、五島列島を治めていた五島藩が大村藩の外海地域から移民施策を始めるようになると、潜伏キリシタン達は信仰を続けるために、信仰を隠しながら生活をすることが可能な五島列島へと移住しました。
実は移民たちのキリスト教信仰が黙認されていたという背景もあり、「黒島の集落」と、五島列島の「野崎島の集落跡」「頭ヶ島(かしらがしま)の集落」「久賀島(ひさかじま)の集落」「奈留島(なるじま)の江上(えがみ)集落」の4つでは、彼らが独自に信仰を続けていた跡が見られます。
4、潜伏キリシタンの変容と終わり
19世紀後半に幕府が開国を進め、1865年になると、現在の長崎市にある大浦天主堂には、2世紀ぶりに宣教師が訪れました。そういった背景もあり、潜伏キリスタンたちがようやく自分たちの信仰をここで告白。これは「信徒発見」と呼ばれるほどに話題となり、ローマ教皇にも伝えられました。
彼らはそのままカトリックになることもあれば、神道や仏教へ転宗したり、禁教期の信仰をそのまま続けるという「隠れキリシタン」へと変容していくこととなりました。
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
潜伏キリシタン関連遺産が評価されたのは?以下の点。
登録基準(iii)
長崎と熊本の潜伏キリシタン関連遺産は、キリスト教が禁止された17〜19世紀までの2世紀に渡って、潜伏キリスタンによって密かに続けられたキリスト教の信仰が続けられ、独自の宗教的伝統の証拠を残すという点。
つまり、
「長崎と熊本に残る12の構成資産は、江戸幕府によってキリスト教が禁止されていた時代に、潜伏状態であったキリシタンたちが、日本社会で密かに信仰を続けていたため、他のキリスト教社会とは違う独自の宗教伝統が見られる」
ということですね。
登録されているのは、以下の12の構成資産。
・原城跡
・安満岳と春日集落(平戸島の聖地と集落)
・中江ノ島(平戸島の聖地と集落)
・天草の崎津集落
・外海の出津集落
・外海の大野集落
・黒島の集落
・野崎島の集落跡
・頭ヶ島の集落
・久賀島の集落
・奈留島の江上集落
・大浦天主堂
それでは、ひとつひとつ解説していきましょう。
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産の構成資産をご紹介
1、原城跡/長崎県南島原市
島原半島の南部にある原城は、1496年に有馬氏の当主によって建造されると、1616年には新たに赴任された松倉重政によって廃城となります。島原の乱(1637〜1638年)が発生すると、一揆を起こした農民たちがここで立てこもり、天草四郎を総大将として激しい戦闘を繰り広げ、その際に掘りや土塁などが築かれました。
しかし、最終的にはここに立てこもった3万7000もの人々は皆殺しにされました。1990年から発掘が始まり、大量の人骨や十字架やロザリオなどのキリスタンの信心具(しんしんぐ)が見つかり、石垣や城門、櫓などの遺構があったことから、堅固な城であったことが分かっています。
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2・3、平戸島の聖地と集落/長崎県平戸市
北松浦半島の西側に浮かぶ島で、ここは古来より寄港地として利用されていて、16世紀にはイエズス会の宣教師によってキリスト教の布教の拠点となるものの、各国の商館は長崎へと移転して、ここはキリスト教の弾圧の場となりました。
登録されているのは、潜伏キリシタンが棚田を切り開いたという、島の北西部にある「春日集落」。他にも「安満岳(やすまんだけ)」も登録されていて、ここは山岳信仰の中心地でしたが、山頂にある石塔が信仰対象となりました。近くに浮かぶ「中江ノ島」は、17世紀前半にキリスタンの処刑が行われたこともあり、ここは島そのものがキリスト教へと結びつき、聖地となりました。
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4、天草の崎津集落/熊本県天草市
天草下島南部にある羊角湾に面した集落で、かつては潜伏キリスタンが多く住んでいました。ここは辺境にあるため、島原の乱に参加することがなく、人々は漁業で生計を立てていて、表向きは仏教徒として暮らしていました。ここではアワビなどの貝殻を信心具として使用して、大黒天や恵比寿神を唯一神デウスとして信仰を続けていたという独自の宗教伝統が見られます。
1934年には「﨑津教会」が建立されるものの、これは世界遺産の登録範囲には含まれていません。
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5、外海の出津集落/長崎県長崎市
西彼杵(にしそのぎ)半島の南西部にあり、現在は長崎県外海町にありますが、今でも小平集落と呼ばれます。リアス式海岸沿いに作られたため、キリシタンが隠れ住むのにうってつけでした。集落は河岸段丘にあるために、石積みによって建造物や段々畑が作られ、人々は漁業などをして暮らしていました。1909年に完成した「出津教会堂」も世界遺産に登録。
住民は古くから聖画像を拝み、日本語の教義書などもあり、独自の信仰が続けられ、この住民たちが五島列島へと移住したためにこの地の教義が島に持ち込まれました。
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6、外海の大野集落/長崎県長崎市
出津集落よりもさらに奥にあり、半島のほぼ中央、大野岳の麓に位置します。ここは佐賀藩の飛び地であったことから潜伏キリシタンが暮らすのに適していて、仏教徒と偽ったり、神社にて神道を装いながらここを祈りの場として信仰が続けられていきました。
1893年に竣工した大野教会堂は、重要文化財にも登録されていて、これらを含めた景観が世界遺産に登録。
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7、黒島の集落/長崎県佐世保市
北松浦半島の南西に位置する島で、周囲の九十九島の中でも最大の面積を誇る島。戦国時代にキリスト教が伝わるものの、江戸時代になると牧場が置かれ、平戸藩の領地となりました。19世紀前半になると、大村藩のキリシタン達がこの地へ移住し、田畑を開墾しつつ、仏教寺院で信仰が続けられていきます。
その後「信徒告白」の後、引き続きキリシタンたちが暮らし、1897年から黒島天主堂を建設。ここはロマネスク様式の外観であり、三廊式のバシリカとなっていて、保存状態も良好で世界遺産にも登録されています。
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8、野崎島の集落跡/長崎県北松浦郡小値賀町
野崎島は、五島列島の北東部にある7.36平方kmの小さな島。野首集落は古くから神道が盛んな地で、19世紀から潜伏キリシタンが暮らすようになると、神道の氏子として信仰が続けられました。
島の中央部にある旧野首教会は、1907年に周囲の野首地区に住む住民たちが費用を出し、1908年に完成。高度経済成長期以降は、島民が激減し、現在は無人島となったため、教会としては使用されていませんが、県の指定有形文化財として保護されています。
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9、頭ヶ島の集落/長崎県南松浦郡新上五島町
頭ヶ島は、五島列島の中通島の東側に浮かぶ1.88平方kmの島。ここは病人の療養地であったため、19世紀に外海から訪れたキリシタンがここに移住し、仏教の開拓指導者に従って暮らしていました。
カトリックに復帰した島民たちは、19世紀末に木造の聖堂を建設し、その後、現在の頭ヶ島天主堂を1910〜1919年にかけて建造しました。ここはカトリック教徒によって築かれたために、現在はカトリック教会に属しています。
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10、久賀島の集落/長崎県五島市
久賀島は、五島列島の中でも3番目に大きな島で、8世紀から記録が残るほどに歴史の深い場所。16世紀にイエズス会によって布教が進められ、信者が増えるものの、一度途絶えてしまいます。18世紀後半になると、大村藩による潜伏キリスタンの移住計画によって、各地に入植し、明治時代には「五島崩れ」と呼ばれるキリシタンの摘発事件が起こるほどに信者が多く住んでいました。
その後、信教の自由が認められ、1881年にはカトリック浜脇教会が完成。1931年に浜脇教会は廃することになり、旧教会堂を解体し、その資材から現在の「旧五輪教会堂」が建設されました。これは五島列島でも最古の教会で、世界遺産に登録されています。
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11、奈留島の江上集落/長崎県五島市
奈留島は、五島列島の中でもほぼ中央部に位置する島。18世紀に外海から潜伏キリシタンが移住し、彼らが暮らした江上集落は島西部の山々に囲まれた湾に面していたため、狭い谷間を開梱しながら開発したもの。
1881年には当時住んでいた4つの家族がカトリック教会に復帰し、その後は人口も増加したこともあり、1918年に現在の江上天主堂が建造されました。
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12、大浦天主堂/長崎県長崎市
長崎市にあるカトリックの教会堂。ここは1597年に豊臣秀吉によって長崎で磔刑された26人のカトリック信者に捧げられ、彼らが殉教した地に向けて建てられたもの。
19世紀後半に日本が開国されたということもあり、フランスから派遣された宣教師ルイ・テオドル・フューレによって設計され、プティジャン神父に引き継がれると1864年に完成。これは日本に現存する最古のキリスト教の建造物でもあります。1865年に司祭となったプティジャンは、ここで「信徒発見」をしたことで有名で、当時のローマ教皇ピオ9世にもこのニュースが伝えられたほど。1953年には洋風建築としては、初めて国宝となりました。
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世界遺産マニアの結論と感想
長崎と熊本に残る多くの構成資産は、建造物としての価値は高いですが、それよりも江戸幕府によってキリスト教が禁止されていた時代に、潜伏キリスタンたちが密かに信仰を続けていたために、他のキリスト教社会とは違う独自の宗教伝統が残っているという点で評価されています。
ちなみに、江戸時代に信仰を続けたキリシタンは「隠れキリシタン」と呼ばれますが、明治以降は潜伏する必要がなくなり、カトリックへと復帰するグループもいましたが、引き続き彼ら独自の信仰形態を守り続けているグループも「かくれキリシタン(隠れキリシタン)」として現在も存在します。しかし、宣教師もおらず、200年も他のエリアのキリスト教徒と接触しなかったため、マリア地蔵など、かなり独特な方向性に…。とはいえ、バチカンでは「古いキリスト教徒」として教義を認めているので、これはこれで「キリスト教の歴史」の一部でもあるのです。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。