登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (3),(4) |
登録年 | 2019年 |
大阪の南部には古墳が多く点在しますが、その中でも大仙陵古墳(仁徳天皇陵)に代表される49もの古墳が世界遺産が登録されています。ところで、百舌鳥(もず)と古市の古墳群はなぜ世界遺産に登録されているのでしょうか?意外と知ってそうで知らない!
ここでは、今回は百舌鳥・古市古墳群 -古代日本の墳墓群-がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、百舌鳥・古市古墳群について詳しくなること間違いなし!
目次
世界遺産・百舌鳥・古市古墳群 -古代日本の墳墓群-とは?なぜ評価されたのかを簡単に解説!
古墳時代(3世紀中頃 〜7世紀頃)というだけに、当時の日本では東北の南部から九州南部にかけて16万もの古墳が築かれました。その中でも大阪平野の高台の上に築かれた49もの古墳群は「百舌鳥・古市古墳群」と呼ばれていて、ここは古墳時代でも最も繁栄した時期に建造したものであると考えられています。
これらは大和盆地と河内平野を本拠地としていたヤマト王権によって建造されました。当時は東アジアと交易を重ねていたため、大阪湾に入る船から巨大古墳が見られることから、古墳はヤマト王権の権力を示すものだと考えられるもの。その後、中国から仏教が伝わると、古墳は建造されなくなり、天皇の霊廟を守護する建造物は寺院へと移っていきます。
古墳は関西地方を中心に100基は建造されていますが、世界遺産としては大阪の堺市の百舌鳥(もず)と藤井寺市と羽曳野(はびの)市の古市にある45件49基の古墳が構成資産となっています。特に日本最大の古墳である大仙陵古墳(仁徳天皇陵)が最も有名ではあり、これは古墳時代中期(4世紀後半〜5世紀後半)のもので、最盛期に建造されたと考えられています。
そして、大仙陵古墳には陪冢(ばいちょう)と呼ばれる小さな古墳が付随していて、ここには前方後円墳、円墳、方墳、帆立貝形墳という4つのタイプの古墳が見られます。これらの大きさは20〜500mもの差があり、階級による権力の差によって大きさも異なっていたと考えられるもの。
古墳は基本的には陵墓として考えられていて、登録されている古墳群は王族とその関係者の墓でもありますが、その他の役割としては「葬送儀礼の舞台」として設計されているのが特徴。どれも盛土や積石をしているだけでなく、墳丘の上には、人や動物、家、器材などを模した埴輪が並べられていました。
ほとんどの古墳は現在も宮内庁によって管理されているため、内部には入れない古墳も多く登録。これらは歴代天皇の「陵墓」として今でも崇められているという事情もありますが、それと同時に実際の埋葬者を特定する研究も進めていかなければならないというのが課題でもあります。
百舌鳥・古市古墳群 -古代日本の墳墓群-はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
百舌鳥・古市古墳群が評価されたのは?以下の点。
登録基準(iii)
百舌鳥・古市古墳群は、日本全国にある16万もの古墳の中でも、古墳時代を代表するもので、この時代の社会構造や階級、高度な葬送文化を示すものであるという点。
登録基準(iv)
百舌鳥・古市古墳群は、古代の東アジアにおいても優れた陵墓で、埴輪や葺石(ふきいし)で覆われた墳丘は階層社会の確立を示しているということ。
の2つ。つまり、
「百舌鳥・古市古墳群は、日本各地の古墳の中でも優れた建築物であり、これらは階層社会の確立を示し、当時の社会や階級、高度な葬送文化を示すものである」
ということですね。
世界遺産としては、
・百舌鳥エリア
→大阪の堺市にある25基の古墳
・古市エリア
→藤井寺市と羽曳野市にある29基の古墳
合計で49基。
それでは、ひとつひとつ解説していきましょう。
百舌鳥・古市古墳群 -古代日本の墳墓群-の構成資産をご紹介
1、田出井山古墳/百舌鳥エリア
田出井山古墳は百舌鳥古墳群の中でも北側に位置する前方後円墳で、第18代反正天皇(はんぜいてんのう)の陵とされています。墳丘長は148m、高さ14.8mと、百舌鳥古墳群でも6番目の規模の古墳で、他の天皇陵と比べると少し小さいもの。反正天皇は5世紀前半に実在したとされる人物で、古墳そのものも出土品から5世紀中頃に建造されたと予測。
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2、大仙陵古墳(仁徳天皇陵)/百舌鳥エリア
日本で最大の面積を誇る古墳であり、墳丘長が525m、最大の高さは39.8mと、世界最大規模の墳墓でもあります。宮内庁としては、第16代天皇の仁徳天皇の陵墓としていて、江戸時代は既に「仁徳天皇陵」と呼ばれていました。しかし、明治維新以降は立ち入りが禁止された上に、江戸時代の記録では既に盗掘されていて石棺にはなにもなかったという記述もあり、被葬者はいまだに不明のまま。
ここは三重の周濠で囲まれた前方後円墳で、内側の第1堤には、円筒埴輪が発見され、かつてはこれが陵墓を囲んでいたと推定されています。これらは5世紀前半〜中頃に建造されたものと推定され、陵墓もこの時期に建造したと考えられるもの。
考古学上では、正式な発掘もされていないので、これを仁徳天皇の陵墓と結論づけることはできませんが、古くから「仁徳天皇陵」とも呼ばれるので、その形状から名付けられた「大仙陵古墳」とともに、どちらも正式名称となっています。
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2、大安寺山(だいあんじやま)古墳/百舌鳥エリア
大仙陵古墳外側の第2堤上から三重濠に位置する円墳。墳丘長62m、後円部の高さは9.7mであり、日本でも最大級の円墳です。ここはかつて「大安寺」と呼ばれる寺の敷地であったことからその名前が付けられました。建造は5世紀中頃と考えられていて、大仙陵古墳に近いだけあり、ここは陪冢だったと考えられています。
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2、茶山古墳/百舌鳥エリア
大仙陵古墳外側の第2堤上から三重濠に位置する円墳。墳丘長56m、後円部の高さは9.3mであり、かつて豊臣秀吉がこの地で鷹狩をした際に、この陵の上で居宅を築いたことから、後に「茶山」と呼ばれたという記録から由来するもの。建造は5世紀中頃と考えられていて、埋葬者は不明ですが、大仙陵古墳に近いだけあり、ここは陪冢だったと考えられています。
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3、永山古墳/百舌鳥エリア
大仙陵古墳の北西に位置する前方後円墳。墳丘長100m、高さは10.3mと、百舌鳥古墳群においては大きなもの。宮内庁からは大仙古墳の陪冢とされているものの、段丘は2段であり、その規模からもともとは独立した古墳であったと考えられています。しかし、内部は発掘調査がされていないため、建造時期も5世紀とされていますが、これはあくまでも推定。
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4、源右衛門山(げんえもんやま)古墳/百舌鳥エリア
大仙陵古墳の北東に位置する方墳。直径は34m、高さは5.4mであり、墳丘からは円筒埴輪が発見されていて、築造時期は5世紀中期と推測されています。「源右衛門」というのは、江戸時代の古墳の所有者から名付けられたもの。ここは幅5m、深さ1.8mの周濠で囲まれていたことが分かり、さらにかつては墳丘長が48mもあったことが判明しています。
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5、塚廻古墳/百舌鳥エリア
日本で最も大きな古墳、大仙陵古墳の東に位置する円墳。直径は35m、高さ4.5mであり、築造時期は5世紀中期と推測されています。ここは大仙陵古墳の陪冢と考えられていて、関係も深いと推測される古墳。1912年の発掘調査にとり、長さ3mの木棺の一部と思われるものが発見され、ここには玉類だけでなく、剣や鏡など、副葬品が発見されています。
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6、収塚(おさめづか)古墳/百舌鳥エリア
大仙陵古墳の南東に位置する方墳。墳丘長は61m、高さは4.2mであり、墳丘からは円筒埴輪や形象埴輪の一部が発見されていて、築造時期は5世紀中期と推測されています。ここは大仙陵古墳の陪冢と考えられているもの。現在は墳丘部分しか残っていませんが、1989年の調査によって前方部分が発見され、実は帆立貝形古墳ということが明らかになりました。
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7、孫太夫山(まごだゆうやま)古墳/百舌鳥エリア
大仙陵古墳の南側の外濠の近くにあり、ここは仁徳天皇陵の陪塚であったとされるもの。墳丘長は65mと小型。前方後円墳であるものの、大正時代にはすでに前方部が失われていたようで、現在は後円墳の部分だけが現存しています。
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8、竜佐山古墳/百舌鳥エリア
大仙陵古墳の南側の外濠の近くにあり、ここは仁徳天皇陵の陪塚であったとされる帆立貝形古墳です。墳丘長は61mと小型。制作時期は大仙陵古墳よりも新しいと考えられていて、5世紀後半と考えられています。
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9、銅亀山古墳/百舌鳥エリア
大仙陵古墳の南西に位置する方墳。一辺は26m、高さは5.4mであり、外濠に並行して築かれたもの。墳丘からは円筒埴輪や形象埴輪の一部が発見されていて、築造時期は5世紀中期と、大仙陵古墳建造の最終段階に合わせて加えられたものとされています。2011年の調査の結果、今まで方墳とされていたものの、その横幅は40m以上あった可能性もあり、前方後円墳や帆立貝型古墳であった可能性も。
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10、菰山塚(こもやまづか)古墳/百舌鳥エリア
大仙陵古墳の北西に位置する帆立貝形古墳。墳丘長33m、後円部の高さは4mであるものの、現在の外観はほぼ丘となっているので、当時の姿を想像するのは難しいところ。墳丘からは円筒埴輪や形象埴輪の一部が発見されていて、築造時期は5世紀前半と、大仙陵古墳と同時期だとされています。
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11、丸保山(まるほやま)古墳/百舌鳥エリア
大仙陵古墳の北西に位置する帆立貝形古墳。墳丘長87m、後円部の高さは9.8mと、百舌鳥古墳群における帆立貝形古墳としては最大のもの。ここは大仙陵古墳の陪冢とされているものの、後円部は宮内庁が管理していて、埋葬施設や副葬品などは分かっていませんが、発掘された円筒の埴輪から5世紀後半ころの建造と考えられています。
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12、長塚古墳/百舌鳥エリア
大仙陵古墳の南東に位置する前方後円墳。墳丘長102m、高さは8.3mと、百舌鳥古墳群においては大きなもの。もともとは幅14mの濠があったとされていますが、現在は住宅地の下に埋まっています。埴輪や土師器(はじき)などが発掘され、これらから古墳は5世紀中頃〜後期の建造とされるもの。
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13、旗塚古墳/百舌鳥エリア
大仙陵古墳と上石津ミサンザイ古墳の間にある大仙公園に位置する帆立貝形古墳で、墳丘長は57.8m、後円部の高さは3.8m。東側の後円部は2段となっていて、墳丘の南側にはくびれ部があります。出土した埴輪から建造されたのは、5世紀中期と推定。
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14、銭塚(ぜにづか)古墳/百舌鳥エリア
いたすけ古墳の北西に位置し、大阪府立堺支援学校内の敷地内にある帆立貝形古墳。墳丘長は72mもあり、明治時代にはすでに存在が確認されていたのですが、その後、古墳の前方部分がバスの乗降場やガレージとして利用されてしまい、現在は後円部分しか残っていません。1981・1982年に校舎の改築工事に合わせて発掘調査が行われ、出土した埴輪の時期から古墳は5世紀後半に築かれたことが分かりました。
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15、上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵)/百舌鳥エリア
大仙陵古墳の南に位置し、墳丘長は365m、最大の高さは27.6mと、全国3位の規模を誇る巨大な古墳です。ここも前方後円墳となっていて、埋葬施設があると考えられていますが、宮内庁からは第17代履中天皇の陵とされているものの、埋葬者は分かっていません。
しかし、1986年に後円部から埴輪が盗掘にあって、すべて回収した際に調査したところ、5世紀初頭に造られたと考えられることから、実際は大仙陵古墳(仁徳天皇陵)よりも古い時代に建造されたと考えられています。
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16、寺山南山古墳/百舌鳥エリア
百舌鳥古墳群でも南側に位置する上石津ミサンザイ古墳の北東に位置する古墳で、墳丘長は44.7m、高さは4.7mであり、築造時期は5世紀初期と推測されています。ここは上石津ミサンザイ古墳墳の陪冢と考えられていて、関係も深いと推測される古墳。
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17、七観音(しちかんのん)古墳/百舌鳥エリア
大仙陵古墳と上石津ミサンザイ古墳の間にある大仙公園に位置する円墳で、墳丘長は32.5m、高さは3.8m。埋葬施設はまだ未調査でありますが、調査によると5世紀前半建造のものとされています。ここは上石津ミサンザイ古墳墳の陪冢と考えられていて、関係も深いと推測される古墳。現在は公園内にあるため、綺麗な円形になっていますが、原型は少し異なるとされています。
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18、いたすけ古墳/百舌鳥エリア
百舌鳥エリアの中部に位置していて、墳丘長146mの三段の前方後円墳。ここはもともと私有地であったものの、1955年に破壊される予定でしたが、市民運動によって保存されたというもの。被葬者は不明ですが、後円部からは埴輪が見つかっていて、5世紀前半に建造されたものと推定されています。
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19、善右ヱ門山古墳/百舌鳥エリア
いたすけ古墳は、百舌鳥古墳群の中でも大型の古墳で、いくつかの陪冢があったとされるものの、現存するのは南東部にある善右ヱ門山古墳のみ。とはいえ、ほとんどが崩壊してしまっていて、一辺は28m、現存する古墳の高さは3mとなっています。埋葬施設はまだ未調査であるものの、5世紀前半の古墳と推測。
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20、御廟山古墳/百舌鳥エリア
御廟山古墳は百舌鳥エリアでは南東に位置していて、墳丘長は203mであり、このエリアでは4番目の大きさを誇る前方後円墳。三段の段丘となっていて、かつては二重の濠があったとされますが、現在の濠は周囲にのみ存在。これは5世紀前半に建造されたものと推定されています。
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21、土師ニサンザイ古墳/百舌鳥エリア
百舌鳥エリアでは南東に位置していて、墳丘長は290mであり、このエリアでは3番目の大きさを誇る前方後円墳。墳丘の周濠があり、ここにはかつて木橋が存在していたことが分かっていて、長さは45m以上もあったと予測されていますが、これは5世紀後半に建造されたものと推定。
宮内庁としては、近くにある田出井山古墳が第18代の反正天皇陵に比定されてはいるのですが、ここは陵墓参考地(埋葬者が不明な陵墓)となっていて反正天皇の空墓としています。
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22、津堂城山古墳(藤井寺陵墓参考地)/古市エリア
古市エリアでも北東部に位置する前方後円墳で、墳丘長208m、高さ16.9mとそれほど大きな古墳ではありませんが、1912年に竪穴式石室と長持形石棺、副葬品が発掘されました。1980年には水鳥型の珍しい埴輪も発掘。
宮内庁としては、第19代允恭天皇の陵墓として考えられているものではありますが、あくまでも陵墓参考地であるため、来場者は登ることができます。
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23、岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)/古市エリア
古市エリアでも西側に位置する巨大な前方後円墳で、墳丘長245m、高さ20m。発掘はされていないので、埋葬者は不明ではありますが、江戸時代から第14代仲哀天皇の陵墓と治定されたため、現在でも宮内庁としてはその説を採用しています。
ここは出土した埴輪から5世紀末に建造されたものであると推定。現在では仲哀天皇は実在性の低い天皇のとされているため、少し時代が下り、第21代雄略天皇の陵墓という説もあります。
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24、鉢塚(はちづか)古墳/古市エリア
藤井寺市の岡ミサンザイ古墳から北へ約100mに位置する前方後円墳で、墳丘長は60m、高さは6.5m。ここは岡ミサンザイ古墳の陪冢であると考えられています。埋葬者と副葬品については不明ではあるものの、墳丘から円筒埴輪が発見されていて、建造時期は5世紀後半とされています。
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25、市ノ山古墳(市野山古墳)/古市エリア
古市古墳群の中でも最も北東に位置する前方後円墳であり、墳丘長は227m、高さは23.3m。墳丘は3段となっていて、両側のくびれ部に造り出しがあるのが特徴。周囲の二重の濠からは円筒埴輪や形象埴輪が出土し、さらに須恵器(すえき、青灰色をした硬い土器)も発掘されていることから、5世紀後半ころの建造と推測されています。宮内庁は5世紀前半に実在したとされる允恭天皇の陵としているものの、はっきりとしていません。
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26、仲ツ山古墳(仲津山古墳)/古市エリア
古市古墳群の中でも北東に位置する前方後円墳であり、墳丘長は290m、高さは26.1m。墳丘は3段となっていて、両側のくびれ部に造り出しがあるのが特徴。堤からは円筒埴輪や形象埴輪が出土していて、古墳の建造は4世紀末と推定。古市古墳群でも2番目に建造が古いとされる古墳でもあります。
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27、鍋塚古墳/古市エリア
古市古墳群の中でも北東に位置する仲ツ山古墳の近くに位置していて、一辺が40m、高さ7mの方墳となってます。墳丘は2段となっていて、現状は1辺40mですが、調査によってもともとは1辺が63mもあったと推測。円筒埴輪や、家や盾といった形象埴輪が出土していて、建造は4世紀末と推定。
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28〜30、三ツ塚古墳(助太山古墳・中山塚古墳・八島塚古墳)/古市エリア
古市古墳群の中でも北東に位置する仲ツ山古墳。その南部にある助太山古墳(すけたやまこふん、墳丘長36m)・中山塚古墳(なかやまづかこふん、墳丘長50m)・八島塚古墳(やしまづかこふん、墳丘長50m)の3基の古墳は同時期に建造されたとされ、中山塚古墳・八島塚古墳は4世紀末に建造されたとされる仲ツ山古墳の陪冢(ばいちょう、大きな古墳に付属する古墳)として宮内庁が管理しています。
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31、古室山(こむろやま)古墳/古市エリア
古市古墳群の中でも東側に位置する前方後円墳で、墳丘長は150m、高さは15m。墳丘は3段となっていて、古市古墳群では中程度の大きさでもあります。かつては濠で囲まれていたとされ、墳丘の東部のくびれ部分は、造り出し(古墳に併設する壇状の施設)も存在。建造は4世紀末から5世紀と推定されています。
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32、大鳥塚(おおとりづか)古墳/古市エリア
古市古墳群の中でも東側に位置する前方後円墳で、墳丘長は110m、後円部の高さは12m。墳丘は前方が2段、後円が3段となっていて、現在は空濠となっているものの、かつては濠で囲まれていたとされています。墳丘からは円筒埴輪や、家や盾、蓋といった形象埴輪が出土していて、建造は5世紀初期と推測。
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33、誉田御廟山古墳(応神天皇陵)/古市エリア
古市エリアで最大の古墳で、墳丘長は425m、最大の高さは36mと、全国でも2番目の大きさを誇る古墳。二重の堀で囲まれ、ここからは多くの埴輪が発掘されていて、魚のように見える土製品も出土しています。
古くから第15代応神天皇の陵墓と伝えられているということもあり、ここは宮内庁から応神天皇の陵墓とされているものの、埋葬者は今でも決着はついていません。埴輪や須恵器から5世紀前半に建造されたものと考えられています。
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33、二ツ塚古墳/古市エリア
誉田御廟山古墳のすぐ東に位置する前方後円墳。墳丘長110m、高さは9.9mと、誉田御廟山古墳の陪冢とされるものの、大型ではあります。墳丘部分は立ち入り禁止となっていますが、埴輪や葺石などが発掘され、これらからは古墳は4世紀後半〜5世紀前半に建造されたとされるもの。
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33、誉田丸山古墳/古市エリア
誉田御廟山古墳の北側の拝所のすぐそばにある円墳。墳丘長50m、高さは7mであり、誉田御廟山古墳の陪冢とされています。古墳は5世紀前半に建造されたとされるもの。誉田御廟山古墳の南にある誉田八幡宮にある「国宝・金銅装馬具」は、5世紀ころに中国北部か朝鮮半島から持ち込まれたもので、もともとは誉田丸山古墳の副葬品だと伝えられています。
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34、東馬塚古墳/古市エリア
誉田御廟山古墳の濠の東側に位置する方墳。墳丘長30m、高さは3.5mと、誉田御廟山古墳の陪冢とされるものの、埋葬者は不明です。現在は墳丘部分は立ち入り禁止となっています。ここでは円筒埴輪が発見され、古墳は5世紀前半に建造されたとされるもの。
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35、栗塚古墳/古市エリア
誉田御廟山古墳の濠の東側に位置する方墳。墳丘長43m、高さは5mと、誉田御廟山古墳の陪冢とされ、墳丘の向きも誉田御廟山古墳と平行していることから、関係性は深いとされています。段丘と濠からは円筒埴輪や家型の形象埴輪が発見されていて、古墳は5世紀前半の建造とされるもの。
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36、東山古墳/古市エリア
誉田御廟山古墳の濠の西側に位置する方墳。墳丘長54m、高さは7mと、誉田御廟山古墳の陪冢とされ、墳丘の主軸に沿って並んでいることから、被葬者との関係性があるとされています。平坦面からは円筒埴輪が発見されていて、古墳は5世紀前半に建造されたと考えられるもの。
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37、はざみ山古墳/古市エリア
藤井寺市野中にあり、墳丘長103m、高さは9.5mと、古市古墳群の中でも中程度の規模。墳丘は三段構成となっていて、くびれ部分に造り出しも見られます。周囲は濠で囲まれ、幅の広い堤もあり、この地域の古墳にしては規模が大きいもの。墳丘には円筒埴輪が発掘されていて、その特徴から古墳は5世紀中頃に築かれたものとされています。
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38、墓山古墳/古市エリア
古市古墳群の中でもほぼ中央に位置する前方後円墳。墳丘長225m、高さは約20.7mと、古市古墳群の中でも5番目の規模を誇ります。墳丘は三段構成となっていて、くびれ部分に造り出しも併設。墳丘はかつて葺石が敷かれていたとされ、埴輪や形象埴輪などが出土していて、その特徴から5世紀前半に建造されたと推測されています。
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39、野中古墳/古市エリア
藤井寺市野中にあり、まるで丘のようですが、これは一辺が37m、高さは4mと古市古墳群の中でも小規模な方墳。墳丘は二段構成となっていて、くびれ部分に造り出しも見られます。周囲は濠で囲まれ、ここからは円筒埴輪や形象埴輪などが発掘されていて、古墳は5世紀前半から中頃に建造されたと考えられるもの。
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40、向(むこう)墓山古墳/古市エリア
羽曳野市にあり、古市古墳群の中でもほぼ中央に位置しています。一辺の長さは68m、高さは約10mの円墳で、墳丘は三段構成となっていて、くびれ部分に造り出しも見られます。宮内庁としては、第15代応神天皇の誉田御廟山古墳の陪冢であるとされているもの。しかし、実際は隣にある墓山古墳の陪冢であるというのが濃厚です。
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41、西馬塚古墳/古市エリア
羽曳野市にあり、古市古墳群の中でもほぼ中央に位置していて、一辺が45m、高さは約10mの方墳。宮内庁としては、第15代応神天皇の誉田御廟山古墳の陪冢であるとされているもの。しかし、実際は隣にある墓山古墳の陪冢であるというのが濃厚です。埋葬者は不明ではあるものの、その特徴から5世紀後半に建造されたと推測。
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42、浄元寺山古墳/古市エリア
藤井寺市にあり、古市古墳群の中でもほぼ中央に位置していて、一辺が6.7m、高さは9.7mの方墳。。隣にある墓山古墳の外堤にほぼ並行していることから、墓山古墳の陪冢であるという説が濃厚です。かつては濠があったとされるものの、現在は埋没。古墳は5世紀中期に建造されたと推測されています。
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43、青山古墳/古市エリア
藤井寺市にあり、古市古墳群の中でもほぼ中央に位置していて、墳丘長62m、高さは10mの円墳。東へ約150mの距離にある、墓山古墳の陪冢とされます。円丘は2段であり、墳丘に小さな方形の造り出しがあるのが特徴。古墳は特徴から5世紀中期に建造されたと推測されています。
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44、峯ヶ塚古墳/古市エリア
古市古墳群の中でも南部に位置する、墳丘長96m、高さは10.5mの前方後円墳。ここはもともと丘陵を利用して建造され、二重の濠で囲まれていて、南側の堤は丁寧な盛土で造られたもの。5世紀後半以降は古墳が小型になっていく傾向にある中で、二重の濠の豪華な古墳が建造されたという点で、ここの被葬者は大王級の人物であったとされます。
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45、白鳥陵古墳/古市エリア
古市古墳群の中でも南部に位置していて、墳丘長200m、高さは前方部が20mの前方後円墳。前方部の幅や高さが後円部よりも高いという点で、前方後円墳としては後期に建造されたとされるもの。そして、1981年の調査で出土した埴輪や土器から、5世紀後半の建造と推測されています。宮内庁からは第12代景行天皇の皇子・日本武尊(ヤマトタケル)の陵である白鳥陵(しらとりのみささぎ)に比定されていて、西側には拝所も配置。
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世界遺産マニアの結論と感想
ここでは、大中小49もの古墳が発見されていますが、これらは日本各地に残る古墳の中でも、規模や建築技術においては非常に優れたもの。古墳の存在は、倭国の社会階層の存在を示し、当時の階級社会や高度な葬送文化を示しているという点で評価されています。
ちなみに、大仙陵古墳は日本一の大きさを誇る古墳ですが、日本一小さな古墳というのは議論があるところ。例えば、茨城県にある穴薬師古墳は高さ4mと、もはや「盛土」レベルであったりと、超小型の「古墳」は各地にたくさんあります。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。