登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (2), (3), (4), (6) |
登録年 | 2004年 |
奈良県・和歌山県・三重県にまたがる紀伊山地といえば、霊場が多く点在することで有名です。やがて各地を結ぶ参拝道も整備され、それらを含めて世界文化遺産に登録。ところで、紀伊山地の霊場と参詣道はなぜ世界遺産に登録されているのでしょうか?意外と知ってそうで知らない!
ここでは、紀伊山地の霊場と参詣道がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、紀伊山地の霊場と参詣道について詳しくなること間違いなし!
世界遺産・紀伊山地の霊場と参詣道とは?なぜ評価されたのかを簡単に解説!
太平洋に面した紀伊半島。ここは標高1000〜1500mもの山々が連なる紀伊山地が多くを占めています。6世紀ころに中国や朝鮮から仏教が伝えられると、7世紀には紀伊山地は山岳修行の場となっていきました。9世紀に空海が高野山に金剛峯寺を創建し、真言密教の修行の場となると、やがて「神仏習合」の思想が広まり、中国から伝わった道教の神仙思想と日本の山岳信仰が融合し、この地で「修験道」が形成されていきます。特に熊野三山は10世紀から神道が盛んな地でもありました。
11世紀になると、平安時代に流行した浄土教の拡大にあり、ここは浄土と考えられ、皇族や貴族、武士によって社寺が多く建造されていきました。しかし、14世紀の南北朝時代になると、吉野山が南朝の中心となったために、北朝によって破壊。江戸時代にも信仰が続けられたものの、明治になると「新仏分離令」と「修験道廃止令」によって、仏教関連の施設は神社となることもありましたが、その後も維持されていったことから現在まで残されています。
世界遺産としては、「吉野・大峰」、「熊野三山」、「高野山」の3つの霊場と、これらを奈良や京都から結ぶ参詣道も合わせて登録。ここは大陸から伝わった仏教や道教に、日本古来の自然崇拝が由来の神道と組み合わさった「神仏習合」が見られるのが特徴です。
紀伊山地は、多雨林地帯であるために緑深い森が広がり、1200年に渡って起源も伝統が異なる3つの霊場を含めて「修験道」など日本独自の信仰が育まれていきました。今でも多くの人々がこの地を訪れることから、日本で初めて「文化的景観」が認められたというのも特徴。
紀伊山地の霊場と参詣道はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
紀伊山地の霊場と参詣道が評価されたのは?以下の点。
登録基準(ii)
紀伊山地に残る霊場と参詣道は、神道と仏教が融合が見られ、東アジアにおける宗教文化の交流と発展を示すということ。
登録基準(iii)
紀伊山地に点在する神社や寺院は、この地の慣習を含めて、1000年以上に渡る日本独自の宗教の発展を示すものであるという点。
登録基準(iv)
紀伊山地は、日本各地の寺社の建築様式に大きな影響を与え、それらの形成のルーツともなっているという点。
登録基準(vi)
紀伊山地の霊場と森林には、1200年に渡って神の宿る地として信仰が維持され、それらが景観に見られるということ。
の4つ。つまり、
「紀伊山地の霊場と参詣道は、神道と仏教が融合し、修験道など日本独自の宗教が発展。霊場に残る建築物は各地の寺社のルーツとなり、古くから神の宿る地として信仰が守られ、今でも自然と共存する文化的景観である」
ということですね。
登録されているのは、大きく分けると、以下の3つのエリアとそれらを結ぶ参詣道。
・吉野・大峰
・熊野三山
・高野山
・参詣道
それでは、ひとつひとつ解説していきましょう。
紀伊山地の霊場と参詣道の構成資産をご紹介
1、吉野・大峰
吉野山
奈良県の吉野町にある山稜で、吉野川から大峰山脈まで約8kmに渡って尾根が続くエリア。ここは7世紀に呪術者であり、修行者でもあった役小角(えんのおづぬ)がこの地で修行し、蔵王権現を感得し、ここで蔵王権現を本尊とした金峯山寺を開いたという伝承が残っています。平安時代から桜の名所としても有名。
詳細はこちら↓
吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)
吉野川の麓にある神社で、創建年代には不明ではあるものの、7世紀に記録が残るため、古くから存在していたと考えられています。もともとは吉野山の最奥部にあったとされ、周囲の川の源流であることから「水分」は「水配り」という意味で、水の神として信仰されてきたもの。現在の建物は17世紀に再建され、桃山時代の建築様式が見られます。
詳細はこちら↓
金峯神社
吉野山で最も奥にある青根ヶ峰(あおねがみね)の側にあり、創建時期は不明ですが、11世紀に藤原道長(966〜1028年)がここを訪れたという資料もあるほどに古いもの。ここは金峯山の地主の神・金山毘古神(かなやまひこのかみ)を祀る神社です。
敷地内には、宝形造り・檜皮葺きの塔があり、これは「義経隠れ塔」と呼ばれ、源義経(1159〜1189年)が兄である頼朝の追手から逃げるために屋根を蹴破ったという伝承が残ります。
詳細はこちら↓
金峯山寺(きんぷせんじ)
吉野山に7世紀に役小角が創建されたとされる寺院で、修験道(金峯山修験本宗)の総本山でもあります。後に皇族や貴族、武士が多く訪れるようになりましたが、14世紀に焼き討ちに遭い、消失。蔵王権現を本尊としていて、本堂は豊臣秀吉の寄進で1591年に再興されたもの。三体の蔵王権現立像が置かれていているものの、これは秘仏とされていて、公開されていません。
明治時代になると、神仏分離によって金精明神を金峯神社にし、大峰山にあった蔵王堂は「大峯山寺(下記)」として別々の寺院となりました。
詳細はこちら↓
吉水神社
金峯山寺の近くにある僧坊・吉水院(きっすいいん)として、呪術者であり、修行者でもあった役小角(えんのおづぬ)によって建立されたとされるもの。南北朝時代は、後醍醐天皇(1288〜1339年)の行宮(あんぐう、一時的な宮殿)として利用されたものの、明治になると後醍醐天皇を祀る神社となりました。
ここは南北朝時代に後醍醐天皇が潜幸(せんこう)した場所として有名で、敷地内には日本最古の書院があり、ここには後醍醐天皇の玉座があったとされる部屋も現存しています。
詳細はこちら↓
大峰山寺
吉野山の南にそびえる大峯山の山上ヶ岳(標高1719m)にあり、古くから修験道の山として、山頂付近は蔵王堂が置かれていました。ここは蔵王権現像を祀っている「山上の蔵王堂」として有名でしたが、明治時代以降は「大峯山寺」という名称になっています。もともとは役小角が創建したとされますが、現在の建造物は17世紀にされた寄棟造(よしむねづくり)。
古くから女人禁制の伝統があり、現在も女性は入ることができません。
詳細はこちら↓
2、熊野三山
熊野本宮大社
和歌山県田辺市にある本宮町にある神社で、山々に囲まれた、熊野川の麓に位置します。創建時期は不明ですが、平安時代には皇族が訪れるほどに繁栄。19世紀末に水害によってほとんどが流されてしまったために、現在残るのは19世紀前半に建立された本宮や結宮、若宮など。ここは神武天皇を導いたという神・八咫烏の信仰があり、サッカー関係者がよく訪れる地。
詳細はこちら↓
熊野速玉大社 (くまのはやたまたいしゃ)
和歌山県新宮市にある神社で、熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)と熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)を主祭神としています。創建時期ははっきりしていないものの、平安時代には、現在と同じく12の社殿があった様子で、皇族も訪れるほど。敷地内には、「梛(なぎ)の大樹」と呼ばれる樹齢約1000年という国内最大の梛の木があります。
詳細はこちら↓
熊野那智大社
和歌山県東牟婁郡那智勝浦にある神社で、熊野夫須美大神(くまのふすみおおかみ)を主祭神しています。ここも創建は不明ですが、本宮と速玉神社と違い、那智の滝を古くから信仰していた地で、中世から近世にかけて、隣接する青岸渡寺(せいがんとじ)と一体化し、那智権現と呼ばれ、修験道場でもありました。明治時代になると「新仏分離令」で青岸渡寺が寺院として独立し、大正時代に「熊野那智神社」となったために、現在は同じ敷地内に神社と寺院が混在するもの。
詳細はこちら↓
青岸渡寺
熊野那智大社の隣にある神社。青岸渡寺の本堂はかつて如意輪観音を本尊としていたために「如意輪堂」と呼ばれていて、1590年に再建。那智の滝が一望できる三重塔は、20世紀に再建されたもの。
詳細はこちら↓
那智原始林
那智大滝の東に広がる、面積約335平方mの原始林。ここは国の天然記念物に指定されていて、広葉樹や針葉樹が入り組んだ本州でも屈指の混交林として知られています。
詳細はこちら↓
補陀洛山寺(ふだらくさんじ)
東牟婁郡那智勝浦町にある天台宗の寺院。ここは4世紀にインド(天竺)から漂着した裸形上人によって開山されたと伝えられています。補陀洛というのは、サンスクリット語で「観音浄土」を意味していて、仏典『華厳経』ではインドの南端に位置するとされています。
中世では、はるか南洋に補陀洛が存在するという信仰があり、それを目指して船で向かうという「補陀落渡海」が各地で行われていました。ここはその中心地であり、渡海船と呼ばれる4つの鳥居を積んだ船に乗って、旧暦の11月に渡海が行われていて、記録ではこの地で20回は行われていた様子。
詳細はこちら↓
3、高野山
丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)
伊都郡かつらぎ町上天野にある神社。ここは慈尊院から高野山へと通じる「高野山町石道」沿いにあることから、まず高野山を参拝する前にはここを参拝するという習わしもあり、高野山とも縁が深い神社でもあります。
ここは神社ではあるものの、9世紀に空海へと神領を寄進したとされ、神仏習合の建築物が多く、明治の神仏分離で除かれたものの、当時の遺構も残っているのが特徴。入母屋造の楼門は1499年に造影されたもので、重要文化財にも登録されています。
詳細はこちら↓
金剛峯寺(こんごうぶじ)
和歌山県の高野町にある真言宗の総本山。正式名称は「高野山金剛峯寺」。高野山は標高800mの盆地に100箇所以上の寺院があるという宗教都市でもあり、八葉の蓮華の花弁のように囲まれているために「八葉の峰(はちようのほう)」と呼ばれます。ここは弘法大師・空海が816年に高野山を天皇から賜ると、結界を張って伽藍を建立。835年に入定(永遠の瞑想に入るという信仰)すると、彼の弟子たちによって伽藍は整備されていきました。
江戸時代は高野山一帯が金剛峯寺の敷地ではありましたが、明治になると「金剛峯寺」は総本山寺院のみを示すものに変更されています。
高野山は大きく分けると、壇上伽藍(伽藍地区)、総本山金剛峯寺(本坊)、奥之院(墓域)、高野十谷(子院・塔頭地区)の4つで構成されています。その中でも修行の中心地である根本大塔は、高野山のシンボル的存在。塔内は、大日如来像の周りに四仏(しぶつ)、さらに16本の柱に十六菩薩などで囲まれた曼荼羅(まんだら)のように構成されるもの。
詳細はこちら↓
慈尊院
高野山の麓にある九度山町にある真言宗の寺院。ここは高野山町石道の登り口に位置し、空海によって庶務を司る政所(寺務所)が置かれました。ここは空海の母である阿刀氏が暮らした地でもあり、母の死後は自作の弥勒仏を廟堂に置き、母の霊を祀りました。弥勒仏は「慈尊(じそん)」とも呼ばれることから、慈尊院と名付けられています。
詳細はこちら↓
4、参詣道
吉野山、熊野三社、高野山の3つの霊場がそれぞれ発展したために、やがて各地を結ぶ参詣道が整備されていきました。吉野〜熊野を結ぶ「大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)」と、高野山を登拝するための「高野参詣道」が登録。「熊野参詣道」は「熊野古道」と呼ばれることで有名で、伊勢路、小辺路、中辺路、大辺路の4つで構成され、各地から熊野三山を結びつつ、高野山だけでなく、伊勢神宮や現在の田辺市まで抜けることができる壮大なルートでもあります。
参詣の途中は食べるものや行動を制限し、心身を清潔に保つことを目的としていて、外界から神域へと向かうということが修行の一環でもありました。
世界遺産としては、熊野参詣道の一つ「伊勢路」沿いにある「鬼ヶ城」や「獅子岩」なども構成資産として登録されています。
世界遺産マニアの結論と感想
紀伊山地は、古くから神が住む地として崇められている場所。やがて仏教が伝来することで、日本独自の宗教である「修験道」など生まれました。各霊場に残る建築物は各地の寺社のモデル的存在となり、現在も人々によって信仰が続けられているという点で評価されています。
ちなみに「道」の世界遺産繋がりとして、「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」を持つスペインのガリシア州と、和歌山県とは姉妹都市ならぬ「姉妹道提携」を締結しているので、交流が深いとか。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。